「同行二人(どうぎょう ににん)」
〈更新日: 2001年12月17日 〉 ※写真が掲載されている場合は、クリックすると拡大表示されます。
本州では、桜の花が咲く今日この頃。
春3月中旬から4月一杯にかけ、四国八十八ヶ所巡りが盛んだ。
先日、信者さんが「四国を廻るのだが、般若心経の本が欲しい」と訪ねてきた。
「これで、四国を夫婦で廻ること3回目です」と声が弾んでいた。
計画的にお金を貯め、険しい山道と霊場をお参りし巡るのは、金品を買って一時的な満足を得るより、充実した心の買い物が出来る何よりの喜びだ。
私も、これまで2回、四国を廻っているが、廻り終わると不思議とまた廻りたくなる気持ちが起きる。
だから一生に何十回と廻る人がおり、その人が廻った証しには、金色のお札が各々霊場に収められる。そして、そのお札は、四国廻り、人生先達(せんだつ)の記しとして珍重される。
四国廻りの特徴は、「同行二人」として表現される。
「同行二人」は、自分と弘法大師がいつも一緒という意味であり、手に持つ金剛杖(こんごうづえ)は、弘法大師にたとえられる。
追いづる、手甲(てっこう)、脚半(けはん)、そして金剛杖を持つ姿は、死に装束とも言われる。
身も心もまっさらにして、道を歩む姿は、死を迎え、俗世間の欲を求めることなく、仏の手に導かれて、向こう岸に旅立つ姿と同じという意味である。
霊場巡拝で、歩き始めの、発心の霊場、徳島県は、まだ体力もあり大した苦痛もなく、手に持つ金剛杖も必要は感じない。
徳島県を過ぎる頃からは、少し疲れが出て、足が痛くなる。
こんな時、21番霊場大竜寺の険しい山道を、金剛杖1本で身を支えながら歩むのは、辛いというより面倒くささや、何故こんな馬鹿げた事を行うのかという、自分への疑問すら生まれる。
菩提の霊場、高知県に入ると、ここに到るまで焼山寺、大竜寺など険しい山越えをして、お参りが出来て来たことへの自信が生まれ、「自分には何かが出来る」という気持ちが生まれる。
このような心を、発菩提心(ほつぼだいしん)と言う。
修行の霊場、愛媛県に入ると、疲れから極端に無口になり、つらくなる。
足や身体は勿論のこと、心には、疲れからくる惰性が生まれる。
61番横峰山を登る時は、それは頂点に達する。ここからが修行。
ここに金剛杖の威力が増す。
山道を歩くとき、ふらふらの身体を知らず々金剛杖で支えているし、前のめりになれば、ひとりでに身体の前に杖がある。
崖から身体が落ちんとする時は、金剛杖は、必死で身体を支えている。
単なる杖なのに、その時に感じる有難さは、人生を歩む自分に、支えを与えてくれる、お大師さまの暖かさと一致する。
またこんな時、山道の傍らで、「ご修行、ご苦労様、お接待です」と水やみかんが接待される。
心温まり、何とも有難い、四国ならでは「お接待の習慣」である。
最後の霊場は、涅槃(ねはん)の霊場、香川県。
あと少しと言い聞かせながら、最終88番大窪寺を目指す足取りは、段々と軽く早足になる。
最後の納め参りをする時は、参拝を終えた満足と喜びが胸に迫ってくる。
そして巡拝に一緒した金剛杖を、自分の手から離して納めようとするその時、身を削るつらさと惜しさが全身に流れる。
そしてまた苦労をしてでも、霊場巡りをしたいと思うのである。
納め最終のお礼参りは、高野山奥の院、弘法大師の御廟前である。
お大師さまに無事霊場巡りが終わったことを報告し、お大師さまへの信仰のあかしを、胸に勝ち取って山を下るのである。
信仰の仕方には、色々あるが、真言宗には四国巡拝という、比較的容易な修行を通して、お大師様を感じる方法のあることを知っていただきたい。
また四国霊場を歩む人に、声をかけ、水や食べ物を供養して、修行の尊さを分かち合う「お接待」という、素晴らしい、心のお布施の行があることも知って欲しいものだ。