明治33年高野山羽幌村説教所を開設。
本尊は、高野山から招来した不動明王。
明治44年弘法大師が高野山から入仏(にゅうぶつ)。
大正7年第4代高山清厳住職の時、寺号公称(じごうこうしょう)により成田山真如院として認証。 大正14年秋から現本堂建設を開始、昭和2年秋に完成。建設費は、七千二百円。
昭和元年8月第5代古川真詮住職の時、大日如来、如意輪(にょいりん)観世音菩薩が入仏、同時に本堂落慶(らっけい)法要を行った。
古川師が病で大阪市に帰郷した後、昭和4年第六代真鍋快厳師が広尾町の地蔵寺から後任住職に就任したが昭和20年1月に逝去した。
高山清法師は、高野山専修学院を修了し
昭和17年中国大同市に宝壽院(ほうじゅいん)を開教したが戦争に遭遇し現地召集。
妻厚子は、剃髪得導(ていはつとくどう)し真言宗僧侶となり
住職の資格を取得して住職無き、空き寺を守った。
終戦後モンゴルに2年間抑留された清法師は日本に帰還、昭和23年1月北海道羽幌町に渡り第七代住職に就任した。
清法師は、断食など行に励み密教の法力(ほうりき)を身につけ様々な加持祈祷(かじきとう)を行い庶民の救済のためのお寺を作った。
昭和56年製紙会社に勤めていた高山誓英師は、同年2月清法師が急逝したため、お寺に帰り高野山で修行し住職資格を取得して同年7月第8代住職として就任。 誓英師は、徳島県での一流伝授や広島県宮島彌山(みせん)で求聞持法50日を修して密教の法力を身につけ、
加持祈祷によりお寺の運営を行っている。
成田山真如院は、平成10年10月4日開基百年祝賀行事を行った。その際、本堂全面修理、庫裡一部修理を行い、総額7千万円の事業経費が掛かった。
平成13年から羽幌町の将来の発展の見透しがないことも有り、札幌市に進出の機会を伺っていた。平成14年春札幌市清田区平岡に旧園楽寺(浄土真宗大谷派)が新施設に移行するに当たり秋施設となった現札幌分院施設を平成16年11月26日住職個人により購入した。
札幌分院では、平成21年不動明王入仏、平成24年虚空蔵菩薩入仏、令和5年地蔵菩薩入仏して本堂の中心仏が揃った。
その他、平成16年、平成19年、平成25年、平成29年に納骨壇を整備し、平成29年には羽幌町本院に永代納骨墓を約2千2百万円にて整備した。
平成30年には、誓英師の求聞持行の回顧録を出版した。また、成田山真如院全体に関する出版記述は、既に終わっており、現在羽幌町本院の不動明王の修理事業を令和26年以降に行え予定である。
その修繕記録を併せて掲載してから出版する予定でいる。
令和6年には、庫裡改修工事を行い新しく納骨壇整備、エベレーター設置などを行う予定でいる。
尚、令和6年から後継者誓心が新住職に就任する予定である。
誓心は、平成25に得道を受け26年専修学院終了後、27年高野山御恩忌千二百年法要に出仕、その後広島県宮島弥山にて求聞持法を修行し成満している。
令和5年7月16日地蔵菩薩入魂法要の際、誓英住職の分院整備がほぼ終了した事と新住職就任への新たな希望を慶讃文にて宣言をした。
17世紀前半から、松前藩下この流域に砂金採取の人が往来したのが開拓の始まりのようだ。
嘉永元年(1848)ペリー来航の5年前、アメリカ人ラナルド・マクドナルドが捕鯨船プリマス号から、一人自分の意志で下船しボートで焼尻島に漂着した。無人島と思い利尻島に向かい上陸、生活する傍ら島民に英語を教えた。
その後、船内反乱を起こし捕虜となっていたアメリカ捕鯨船員15名と松前で出会い、一緒に長崎へ移送された。
焼尻島に漂着してから、長崎に送られたまでの期間は3ヶ月と言われている。
長崎では、森山栄之助ら14人に英語を教えている。
森山栄之助は、ペリー来航時に主席通訳官として交渉に携わった人物。マクドナルドは、日本最初の英語教師だったといえる。この頃の日本近海は、捕鯨で有名でありメルビルの小説「白鯨」の舞台もここだと言われている。
天明6年(1786)六代栖原角兵衛に天売、焼尻漁場請負に命ぜられるとの記述がありアワビ・ニシン・ナマコ等の産物は、栖原屋のみが交易した。
安政年間に、松浦武四郎が留萌沿岸の測量に入ったころから江戸幕府の支配が明確になっていったようである。
明治2年(1869)「開拓使」が置かれ「えぞ」が「北海道」と命名。
この地は、天塩国苫前郡として水戸藩に支配。 水戸藩支配が終了後、明治政府下で苫前郡を苫前村・白志泊(しろしとまり)村・力昼(りきびる)村・焼尻村・天売村に区画。
明治12年(1879)郡区町村制が定められ、留萌に郡役所・焼尻村・天売村の戸長役場を焼尻村に設置。明治13年(1880)苫前村・白志泊村・力昼村の戸長役場を苫前に設置。明治27年(1894)羽幌村は、苫前村の分村として成立。
この間、焼尻島・天売島は、青森・秋田・石川県からニシン漁の出稼ぎヤン衆が集まった。
またこの頃から羽幌川岸にも、ニシン漁や捕鯨業のために移住が始まる。
明治29年(1896)羽幌、築別両原野が解放され福井・富山県から約400戸集団入植し地域集落を形成し始めた。明治30年(1897)羽幌村戸長役場として独立。
この地は、明治・大正・昭和20年前半まで主にニシン漁が豊富で、漁業や米農業など自然の恵みにめぐまれた豊かな大地であった。
同時に、昭和16年羽幌炭鉱が開坑され、資源が豊かで本当に恵まれた土地であったのは間違いない。
炭鉱は、昭和45年の閉山まで約30年間地域経済を潤し、政治・経済・行政の面で留萌管内中心都市として発展した。
お陰で人口が3万人を越えた時もあり、経済・文化・教育・スポーツ等にも恵まれ、優秀な人材も多く排出して地域のみならず全国に名をとどろかせた。
しかし、時代の波・過疎化の波・エネルギー革命の波・国際化の波・最近ではIT化の波が襲い掛かり、昭和20年代後半ニシンが全く捕れなくなり、昭和45年羽幌炭鉱の閉山、62年国鉄羽幌線の廃止、平成7年NTTの撤退、11年測候所の撤退、13年森林管理事務所(営林署)の撤退など、これまで町の中心的な事業主体が廃止、撤退して地方都市としての存在価値は急激に失われた。
中心的な事業主体が撤退した後、事業主体は町行政に移行しサンセット・ビーチ整備、サンセット・ホテル営業、羽幌道立病院整備や各福祉施設整備への係わり、スキー場、総合体育館整備など国が主張した国土の均衡ある発展の下に、地域環境の整備に先進的に取り組んだ。
今度は、行政改革・構造改革の波が襲いかかっている。
その為、町村合併を促がされ行政の合理化・効率化に加え、町村の縮小は避けられなくなった。
今後の行方は、全く予断は許されないがロシア沿海州・サハリン・韓国・北朝鮮・中国との沿岸貿易の可能性も残しており、今後の国の歩み方次第では大きく展開することも考えられる。