「お陰様は、縁(えん)の意味」
〈更新日: 2001年12月17日 〉 ※写真が掲載されている場合は、クリックすると拡大表示されます。
北海道は、6月の季節が一年で一番よい季節だ。
山の木々は、一斉に緑に芽吹き、「カッコー、カッコー」と種まきを催促するカッコーの声が新しい息吹を教えている。
5月中旬に、田んぼに水が入って、今丁度田植が終わったころだ。
田んぼに植えられた、稲の苗は、キラキラ光る太陽の光と新しい空気をいっぱいに吸ってスクスク育っている。
そして、自然を腹いっぱいに吸収し、成長して夏には花を咲かせ、秋にはたくさんの実をつける、そう想像すると心がウキウキしてくる。
しかし、現代の米つくりは、昔と違って大変なようだ。
苦労して育て、たくさんの「米の実」をとったからといって、決して利益が生まれていない。
それどころか借金を作ることになるというおかしな世の中だ。
だが土と太陽と汗にまみれ、地球と話をしている農民の姿は、実に活力に満ち溢れ素晴らしい。
「米は、何からできているの」と尋ねると、ほとんどの人は、「種から」と答える。
確かに「種」が育って大きくなれば「米の実」をつけるが、「種」が育ち花を咲かせ実を付けるまでには、自然のいろいろなものを必要とする。
土を耕して作った「田んぼ」、稲が潤うために必要な「水」、「空気」、育つために大事な「温度」、「雨量」、栄養となる「肥料」、耕す「人間の手」、そして文明の利器である「トラクターなどの機械」、そして「お金」も必要だ。
このような様々なものが、一粒の米が育つために必要なものである。
そしてこれらのものが、さまざまに係わり、米の実の中に「陰」となって詰め込まれる。
そして、この「陰」の詰めこまれた米をいただき、私たち生き物の命をはぐくんでくれることから、感謝して「お陰様」というのである。
米は、地球や自然、人間の智恵などありとあらゆるものが、ぎっしりと詰まった自然の缶詰なのである。
私たちが、米を口にする時は、地球を飲み込み、自然や人間の智恵をも飲み込んでいるとも言える。
「お陰様」を、仏教的に言うと、「縁(えん)」という言葉に当たり、「作用」とか「条件」という意味を持つ。
米が育つには、温度、雨量、太陽、人の手、土など全てが上手く整わないと出来ない。
要するに全ての条件が整わないと米は、育たないのである。
この「条件」が「縁」という意味である。
そしてこの「縁」こそが、米に「陰」となって詰められており、私たちは自然に生かされているとされるのである。
そして「自然や知恵を宿す陰」をいただくのであるから「感謝」がなければならない。そこに「報恩感謝の念」が生まれる。
「陰」に敬語をつけて「お陰様」と敬うのは、そんな意味からきている。
そしてこの言葉には、私たち農耕民族に共通した思想が宿っているのである。
また「陰」を教えるものに「鐘(かね)の音」がある。
「ゴ~ン」となる音は、打たれる鐘と打つ木(シモク)が出くわした時に音がでる。
要するに打つものと打たれるものの条件が整った時に音がでるのである。
この打たれるものを「因」といい、打つものも「因」といっている。
そして出くわす条件を「縁」というのである。
これを「因縁」と称し、この世では、一つ一つのものが互いに作用し合い条件をぶつけ合って現象が起き、自然や社会が出来ているのだと、お釈迦様が、説いている。
「米をいただく」時、「鐘の音」聞く時、なにげなしに食べたり、聞いたりせずに、私どもがこの世に生かされている縁の原理を感じとってほしいものだ。