「失われた慈しみの心、譲り合いの心」
〈更新日: 2001年12月17日 〉 ※写真が掲載されている場合は、クリックすると拡大表示されます。
先日、大阪の池田小学校で小学生8名殺害という悲惨な大事件があった。
極悪、非道、許すことの出来ない事件だ。
これまでも、オームサリン事件、神戸の小学生殺人事件、九州のバス乗っ取り事件、医師の殺人事件、母親が我が子を殺した事件、子供が親を殺した事件、山形の放火事件、東京の一家殺人事件の他に数え切れない数々の凶悪な事件、そして今回の精神障害者を装った小学生殺傷事件等、どうも理解に苦しむ凄惨な事件ばかりが、ここ数年間集中的に起こっている。
現在の日本社会は、歯止めのきかない犯罪王国に成ってしまったと、ほとんどの人が感じているのではないだろうか。
世界でも数少ない「犯罪のない、安心が売物の日本社会」であったのに、どこでどう狂ってしまったのか。
こんな出来事ばかり起きていると、明日を歩もうとする道に、暗曇ばかり立ちはだかり、全く前が見えない不安な気持ちが襲ってくる。
社会を構成する人の心に、昔のような他人を思いやる心、弱い者を助ける心、優しい心が、どうしてなくなってしまったのだろうか。
昔、ガキ大将は、子供や老人の弱者をいじめることはなかった。
むしろ率先して、弱者を守り、助ける精神を教え、残したものだ。
ところが今回の事件では、社会的弱者である精神障害者を装い、平気で他人にウソをつき、自分の欲望を押し通すためだけに、極悪、非道な事件を起こしたのである。
さらに事件を起こしただけでも大事件なのに、自分を被害者や精神障害者という、他人には見えない心を装って、ウソ吹いて事件を起こしたのは、精神障害で苦しむ人達のみならず、社会的弱者も含め、私達をも馬鹿にした身勝手極まりなく到底許すことができない鬼人だ。
これまで日本社会は、暗黙の中に他人を尊重し、他人を慈しみ、互いを思いやり、譲り合いながら共存する、心の世界が出来上がっていた。
しかし、いまや安心と互譲精神を世界に誇っていた日本社会の秩序は、音をたてて崩れている。
日本社会が誇っていた、他人を尊重する心、互いを思いやる心、慈しみの心、譲り合う心は、「お前」という言葉に代表される。
「お前」という言葉は、
「自分の御(おん)前(まえ)に、自分以外の尊重する存在がある」ことを表現する日本人独自の言葉である。
これは、日本人の心の中に、自分以外の他人に対して「御」という敬語を使い、常に敬い、尊重しながら持て成すという密教の思想が根付いていた。
この思想は、お茶の心になり、お花の心になり、日本料理の心になり、そして私達日本人が住まいする和風建築の思想にもつながっている。
所謂、日本の文化の基本となる「人を持て成す」思想である。
しかし、いつしか「御(おん)」の思想より、「怨(おん)」に等しい「敵を憎む」思想が闊歩(かっぽ)する今日となってしまった。
また昔は、家に「縁側」や「井戸」があった。
そこでお茶を飲み、お菓子や漬物を食べ、米をとぎ、野菜を洗いながら、世間話をし、人付き合いをし、近所付き合いをしたものだ。
「縁側、井戸端の心」がそこから生まれた。
そして、この日常生活が、他人を気使い、思いやる心を育んできた。
しかし戦後、近代文明の中核として輸入し続けた西欧の個人主義思想は、個人の独立や自尊心を高めた反面、個人の差別化や孤立化を極端に高めてしまい、これまで日本社会が持っていた互譲精神や慈悲心など人間が共存するための思想を喪失させてしまった。
その結果、日本人個々の間に想像もつかない高い壁が存し、マンション住まいのような、人間の隔絶した社会を成立させてしまったのである。
高度成長経済を謳歌し、便利さを追求させた西欧思想は、とんでもない落とし児を産み落としてしまったと言える。
残念ながら西欧の個人主義思想には、「人間は、常にこの世に共存して、互いを慈しみ合う」とする互譲精神の思想を失わせてしまう重大な欠陥がある思想と言えそうだ。
この歪んだ日本社会に、今求められている思想と言えば、私達が古今から英々と持ち続けている「他人を思いやる慈しみの心」、「自他の利益を分かち合う心」以外にはない。
その代表的な教えは、以下にある。
密教経典に
「南無(なむ) 自他(じた) 法界(ほうかい) 平等(びょうどう) 利益(りやく)」 の経文がある。
これは「自分と他人とが同じく持ち合っている仏の心に帰依、尊重し、互いの喜びや利益を等しく分かち合えますように」
という意味を持っている。
この密教経典では、とりも直さず慈悲の心そのものを教えている。
自分も他人も同じ世界にいて、同じ環境の中に共存するが故に、存在する諸々の生命は、生命を互いに分かち合って生きているという密教の根本思想である。
そしてまた、これらの密教思想は、昔、家庭の中からも学校教育や、社会教育からの中から自然と教えられ、受け継がれてきた。
しかし、これまで仏教や密教思想を含めた宗教哲学は学校で教えることが出来ず、むしろ教えることが、時代遅れのような感覚を持ち、タブー視されてきた所に問題があった。
社会や学校の中には、学力優先主義、効率優先主義、個人優先主義の考えが先行し、その優先基準によって人間が評価され続けた結果、人間味を失った殺伐とした社会を作り上げて来てしまったと言える。
教育界では、人ごとのように言っているが、その責任は実に大きい。
また今回の大事件が、教育現場で起たことは、これらの点を鑑みると、自らが作り上げた教育結果で、とんでもないしっぺ返しをされたように見え実に皮肉な事と私は見ている。
教育界には、今こそ人間の心を教える仏教や密教思想を含めた宗教哲学を取り入れ、教えるべきに来ているように思う。
そのためにも、まず教育者と称する人達から、率先して仏教や密教思想、宗教哲学、歴史を正確に勉強し、身につけ、先生たる前に人間を磨く必要がある。
仏教や密教を含め宗教を、死者のもの、死後に使えれば良いもの、オカルトやまがい物の程度でしか見ない宗教観では誠にお恥ずかしい。
仏教や密教思想、宗教哲学が人間社会の中でどう関わっているのか、またどのように利用されているのか真剣に見つめ直す時に来ており、宗教家も教育者も政治家も全てに関わる人間が、日本社会を形成する根本哲学の確立に感心を寄せる必要がある。