【高野山真言宗成田山真如院(羽幌本院・札幌分院)】札幌・羽幌での十三参り・水子供養など

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「雨の神、マチェンドラ神」

〈更新日: 2001年12月17日 〉 ※写真が掲載されている場合は、クリックすると拡大表示されます。

お盆が終わり一息ついていた8月18日夜、NHK-BS2「地球に好奇心」番組で、「雨を呼ぶマチェンドラ」と題した放送があった。
久しぶりにじっくり見入った。

それは、ネパールカトマンズ盆地のパタンという町で、雨を呼ぶヒンズーの神マチェンドラを、20メートル越す世界最大の山車に迎え町中を練り歩き、民衆と共に豊作を願う雨乞い祭りの様子であった。

5月の春、海抜1,300メートル山地にジャガイモと小麦の収穫後、カラカラに乾いた大地に田植を行なうには、どうしても雨が欲しい農耕民族の雨乞い祭り。

1,400年昔、12年続いた旱ばつの大地に雨を呼ぶため、王様と僧侶そして農民が、インドへ雨を呼ぶ神マチェンドラを迎えにいった。

その時、一緒に同行した農民の娘が、神様を壺の中に閉じ込めて運んだとされている。
しかし、途中母親が娘を呼び戻したため、娘は、壺をお腹にくくりつけ、あたかも妊娠したかの様相をして帰りを急いだとされる。

このエピソードは、如何にも東洋的であり、農耕民族ならではの話しだ。
農耕は、常に全て自然の「縁」により生み出される。

即ち、マチェンドラ神を連れて来る人が、妊娠した女性である事は、生み出す力を持つ女性を、恵みをもたらす大地の象徴として示している姿でもある。

この祭りには、19歳の若い娘が、水で身を清め、5日間の断食による持斎を経てパタンの町から20キロ離れたクルアルの谷にある川の中からマチェンドラを迎え入れる。

そして妊娠の様相をして約6時間歩いてパタンの町に帰り、ヒンズー教寺院に待つマチェンドラ神に汲んだ聖水を注ぐ。
このことによりマチェンドラ神に魂が宿り雨を呼ぶ力を得る。

そして、力を得たマチェンドラ神を、20メートル越す大きな山車に安置して、民衆が等しく雨の恩恵に合えるようにと街中を練り歩く。

また山車を作る職人も、昔から12家系のみと神様から指定されており、これもまた食べること、家庭生活などに持斎して山車を作る。

そして出来上がった大きな山車を、実に30万人という大勢の民衆が、24日間にわたり引っ張り回すのである。

一連の解説を試みたが、神様を迎える、山車を作るなど関係者が「みそぎ」を行ない、山車を街中に連れ出し、神様の恩恵を民衆に等しく分かち合うなど、私達日本人の行なう祭り儀式と全く同じだ。

私もパタンに行ったことがあるが、工芸が盛んでいたる所に仏像が売られており、仏教徒にとっても大変興味深い敬虔さを感じる町である。

また、気候が北海道に似ていて、町を囲むヒマラヤの山々を眺めると、まるで自分の田舎にいる錯覚さえ覚える所だ。

顔立ちも日本人とそっくりであり、さらに言葉も日本語の発音に似ているなど、日本人のルーツを感じた。
この祭りで山車を引っ張る時の掛け声が「ワッショイ、ワッショイ」に似ており日本語かと思わせる。

パタンでの雨乞い祭りは、日本における様々な祭りと同様に、五穀豊穣など農耕の恵みを祈願するものだ。

また豊漁や海運安全祈願も、自然の恵みに対する感謝であり願いである。

私は祭りを詳しく研究したことはないが、ヨーロッパやイスラム圏で行なわれる「謝肉祭」所謂、「生き物の血を捧げて恵みを感謝する祭り」とは大きく内容を異にする。

それは砂漠地帯の狩猟民族が持つ、水がなければ「死」、「命をかけ、奪い取ってでも生きる」という、過酷な自然条件にさらされている遊牧思想とは大きく違っている。

このような遊牧思想は、ヨーロッパやイスラム圏の信仰に通じる「これを信じなければ死を待つのみ」、「この信仰以外は、異端邪教」という2者択一を迫る信仰に通じている。

しかし、ネパールや日本、また東南アジア他の国々の農耕民族思想は、祈りは恵みをもたらすという、自然に期待する信仰にもとづく。
祈れば、必ず向こうに何かが期待できるという願いの思想、彼岸の信仰である。

そしてまた、祈りを通じての願いは、自然の神様は願うものすべてに共通して平等に与えられるという絶対平等の思想や信仰に支えられている。

例えば、真言宗の根本本尊である大日如来(バイローチャ)の「影を作らず、全てを照らす」意味も、絶対平等の考えにもとづくものといえる。

全てに平等が与えられるという信仰は、「自他の利益を平等にこうむる」という考えにつながる。
この「自分も他人も同じ利益が得られる、同じ恵みが得られる」という考えは、農耕民族が信仰する仏教やヒンズー教など、東洋に流れる信仰形態の根本の考え方である。

現代の「自分だけが、良ければいい」という風潮は、西欧思想が根底に流れる個人主義の思想が顕著になった姿とも受け取れるが、このような考え方とは、全く異なっていることに気づくかされる。

ネパールのマチェンドラ神の信仰、日本の御神体とお神輿の信仰、五穀豊穣や大漁祈願など自然の恵みを願い、感謝するお不動さんの信仰など、私達の心の原点を振り返りつつ、今日失っている「自分も他人も同じ利益、恵みを得られる」という心を分かち合う思想が、今こそ必要ではないかと思う。

マチェンドラ神は、大地に恵みの雨のみならず、乾いた心に恵みの信仰を教えてくれた気がした。

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