「加持祈祷(かじきとう)の話しから」
〈更新日: 2001年12月17日 〉 ※写真が掲載されている場合は、クリックすると拡大表示されます。
先般の読売新聞「オンライン」というコラム欄に、貧者を救済のために一生を捧げた、有名なマザーテレサ女史について書かれていた。
それは「1997年、マザーテレサ女史が87歳で逝去する直前、不眠症に悩まされていたマザーテレサ女史に、大司教が悪魔払いを行った事が是か非か、ローマカトリック教会で審査をしたが問題はなしと判断」というものだった。
キリスト教カトリックでは、聖水を注いで悪魔払いの祈祷をよく行うようだ。あのホラー映画で知られている「エクソシスト」でも司教が悪魔払いを行い、邪悪を退治するという場面が多く見られる。
西欧では、常に善と悪が対立し、人に災いをもたらす悪に対しては、神の加護を受けた善が駆逐するという考えによる祈祷が中心だ。
そこには「善と悪2者の対立から、神の加護を受けた善に、全ての悪は必ず従い、そして神による善の思想により次の世界を生む」という根本思想がある。
これはユダヤ教、キリスト教とイスラム教それぞれの教義ゆえに、それぞれの神との間には対峙が生まれ、過去から現在そして未来永劫郷に渡り、神同士の間には、対峙し続けなければならない命題を含んでいる。
12世紀に行われた十字軍遠征、今日いまだに解決の先を見出せないイスラエルとパレスティナ紛争、イスラム原理主義過激派が起こした同時多発テロ事件、そしてアメリカによるアフガン掃討作戦にある心の背景などは、神への敬虔な信仰であるが故に起きた事件と言える。
これらの事件に共通することは、各々宗教上の「神の違い」、「それぞれの神がもたらす善思想の違い」そして「信仰上の心の対峙」、「人間同士の非共存思想」が根本原因となっているのは言うまでもない。
しかし、ここでは宗教比較による思想内容の検証はさておき、今日まだなお全世界に幅広く行われている「祈祷」(密教では、「加持祈祷」という)の内容について考えてみる。
「祈祷」や「加持祈祷」の儀式は、今日まで古今東西、現代科学が発達した文明社会では、迷信とか不合理なもの、非科学的現象といって馬鹿にする傾向が見られていた。
ところが、科学が最高度に発達した現在においてほど、「心霊写真」とか「お化け」などと随分話題になっていることはない。
私の寺院にも毎日、悩み、心霊写真、お化けが出たとかと、よく訪ねて来る。他にも魚の霊供養、子供の虫きり、人の捜索願、交通安全祈祷、はたまた土地や家屋の地鎮祭、上棟式など多種多様の問題を持って来る。
加えて最近は、社会が複雑になっているせいか、精神上の悩み、心身症的な問題を抱えて来る人が多い。
私からは、事情を聞き、アドバイスし、加持祈祷(=仏に祈り、神通力を働かすこと)をして答えを引き出してあげる。
一般に「祈祷」という言葉を平たく解説すると、「祈り」と「寿(じゅ)を願う」言葉が一緒になって出来ている。
「寿は、時間であり、命の長さ、生命を伸ばし守る」ことの意味を持つ。
英語でも「prayer」であり、祈ることの意味を持つ。
要するに強大な力を持つ神に祈り、不可思議な力で悪を駆逐してくれと願うのである。
密教が示す「加持祈祷」は、その中でも「加持」方に重点を置いて考えられている。
「加持」は、「アディスターナ」というサンスクリットの原語を持つ。
空海は、これを「加」と「持」の2つの言葉に分け、「加」を仏の力、「持」を仏の力を受け持つ行者としている。
そして、この2つの力が合致した時、「成仏した」と言うのである。
密教の「即身成仏」とは、ここを言う。
一般的には難しく、なかなか理解しにくいと思うが、「深い三昧」を行じた者にとっては、その意味は良く理解できる。
そして、その「成仏」感覚を身体に覚えた者は、「祈祷」を修すると、それこそ不可思議な力を示すことが出来るのである。
俗に一人の人間に身についた神通力というものである。
これは、現代までは、非合理的といって嘲笑されたり、無視されたりし続けて来たものである。
ところが、それが現代科学でもそのパワーが研究され、軍事研究にまでも利用されている事実がある。
また、ユングを代表とする深層心理学の分野までもが研究の対称としている。
また「祈祷」始まりは、金岡秀友先生の説明によると、どうやら「薬師如来」が起源のようである。
また、その原型は、お釈迦様自身が薬師的な性格を持つこと、所謂お釈迦様が「医王」とか「大医王」と呼ばれる点から分かると指摘する。
そして仏の教え所謂「法」が「良薬」に当たり、そのため僧侶が「看病人」という言葉を常套句として呼ばれていたと言うのである。
「仏陀の教えが身心の病苦を取り除くことにあった為、教化はしばしば治療に例えられていた」と密教成立論(金岡秀友著)の中に書かれている。
このように、金岡先生の論文を引用すれば、加持祈祷の起源は、薬師如来的な性格をもったお釈迦様に由来すると説明している。
要するに加持祈祷の始まりは、人の病を治すことから始まり、それが神通力の意義の広がりにより、
毒蛇やサソリの撃退、盗賊や追いはぎの撃退、暴風雨や旱魃の撃退、
今日では、交通安全や商売繁盛など日常生活に直接結びついた願へと広がったと考えても良いのではないだろうか。
観音経の偈文には、観音菩薩の持つ不可思議力を大変大きく誇示している。
「或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸則起慈心 或遭王難苦 臨刑欲壽終 念彼観音力 刀尋段段壊 念彼観音力 ・・・云々」
(あるいは、怨賊が囲んで、刀を執って、危害を加えるのに出くわす時、かの観音の力を念じれば、ことごとく即ち(盗賊たちには)慈悲の心を起こすだろう。あるいは、王難の苦に会って、刑に処せられるに臨み、命が終わろうとする時に、彼の観音の力を念じれば 刀が段々に折れ、命が救われる)
観音経の偈文には、普通では考えられない出来事が、観音の力を念じ、信じれば、打ち勝ち、乗り越えられると経文では指摘する。
これまでの世の中では、合理主義的な考えが中心であり、数式できっちり答えがでるもので無ければ、世の中には通用しないという考えが主流であった。
しかし、人間社会には、簡単に答えがでる出来事などは、ほんのわずかであり、ほとんど全部は、答えなるものはないと言って良い。
そんな複雑な社会の中に、生き抜くための答えを探そうとする時には、不可思議な力ほど心に訴えてくるものはない。
不合理であるが故に、社会に起きる様々な出来事を知る中から「加持祈祷」の意味を少しでも味わって欲しいものと感じるところだ。