【高野山真言宗成田山真如院(羽幌本院・札幌分院)】札幌・羽幌での十三参り・水子供養など

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お参りに使う仏具の意味

〈更新日: 2001年12月17日 〉 ※写真が掲載されている場合は、クリックすると拡大表示されます。

 仏具は、どんな意味をもっているか知らない人が多いのではないかと思う。
仏具は、密教寺院において、とりわけ種類と量が多い。
しかし、他の仏教宗派、特に浄土真宗の寺院には少ない。
何故違いがあるのか、あまり関心は持たれてはいないようだ。

ここでは、全ての仏具を取り上げてもわかり難くいので、仏教信仰の基本的なものについて話題にする。
荘厳など仏事に関する飾りつけについては、後日また取り上げる。

宗派ごとに使われている仏具の違いは、お釈迦様が悟られた「仏様」の解釈「仏典」の解釈の違いがそうさせている。

仏教では、「仏様」解釈の違いの中に、聖道門と浄土門の区別を言うことが多い。
聖道門は、主に真言宗や禅宗であり、浄土門には、浄土宗や浄土真宗が入る。

聖土門は、「此土入道(しどにゅうどう)」、浄土門は「彼土入道(ひどにゅうどう)」という。
この区別は、唐の時代の僧、道綽(どうしゃく)が、安楽集の巻上で行ったと言われている。

聖道門は、「この世で自浄努力し、悟りを開こうとする道」のことをいい、別の言い方では「自力本願」と言う。
浄土門は、「阿弥陀により、彼の世界に往って救われることを、ひたすら願う道」のことをいい、別の言い方では「他力本願」と言っている。

この違いは、自分の心の中に仏様をどのように感得するか、方法と道筋の違いと言ってよいものである。

「自力本願」をもう少し説明すると、
各々の自分に時間があって、自分の心を清め、座禅三昧(別には喩_三昧ともいう)行に身を投じられる人であれば、お釈迦様が悟られた深い内容と同じ所に到達可能である道を言う。
また、行じられない人は、その方法や結果を信じて、お釈迦様と同じ結果が得られることを願い、信じる道であることも言う。
お釈迦様が体得した境地を、自らの力で実現しようとする実践、方法、願いを「自力本願」と言っている。

「他力本願」をもう少し説明すると、
時間や様々な都合で、自分を自浄し、心を清める行に身を投じられない人は、阿弥陀が俗人の持つ様々な現実の罪を許して、この身のままに浄土世界へ引き上げてくれる教え、阿弥陀の本願力を信じて、彼の浄土世界に往生することを願い、信じることを「他力本願」という。

仏様を信ずる時、このように大きく分けて2通りの道があると考えて良いのだが、信じようとする道筋の選択は、全て個々に委ねられている。

そして、様々な仏教の信仰体験する際に必要なものを仏具と言ってよい。

「自力本願」には、厳しい規律や環境の中に身を投じて、何かを悟ろうとする為に所謂「修行」という経過をたどる。

この代表的な仏具に「三衣一鉢(さんねいっぱち、3つの衣と1つの鉢)」がある。
3衣は、「座禅瞑想行をするための衣」、「身をまとい、包むための衣」、「寝る時くるまるための衣」であり、「一鉢」は、食事を恵んでもらう為のものである。
現在、僧侶が衣を着たり、袈裟を付ける意味の原点はここにある。

また、お経を読む時に「数珠(じゅず)」も必要とする。
数珠は、一般的に言うとソロバンである。
当初、お経を長い時間掛けて何度も読んでいたが、その内読んだお経の回数を数えるようになったようだ。
その為に用いたのが数珠といえる。

特に密教では、座禅三昧に入る際、マントラといって、短いお経(真言という)を何度も心の中で呟きながら三昧の境地に入っていく。

その為何万回という回数を無意識に数えるにはどうしても数珠が必要となる。

数珠と似たものに、ラマ僧が良く使っている「マニコール」というものがある。
「マニコール」を何度もグルグルと回しながら、無限回数のお経を読むという代物である。

ネパールのラマ教寺院には、「マニコール」が境内の階段の所に付けられていて、寺院に入る時、それを手で回しながら寺院を一周して、入るようになっている。
たくさん回せば、極楽、天国へ行けると言われている。
そこには、仏教信仰の心がそこに宿っているのが分かる。

一方「他力本願」を標榜する人々は、「浄土三部経」というお経を、大勢の人と一緒に何度も読むことが大切にされる。
この為、多くの僧と俗人とが一緒にお経を読むには、お経の声を合わせる必要があり、リズムと調子を合わせるために「木魚(もくぎょう)」を使う。

また、阿弥陀さんの力(本願力)を頂くためには、どうしても阿弥陀さんを礼賛する必要がある。
この為、「鉦詁(しょうこ)」又は「金鉦(きんしょう)」といって、キンキンと打ち鳴らしながら「南無阿弥陀仏」と何度も礼賛する。
また、お経を読む始めと終わりには「大金(だいきん)」又は「けいすう」といった大きな鐘(かね)を使って合図をする。

しかし、浄土真宗では余り仏具を用いない。
真宗の最大の仏具は、「僧侶の声」、「僧俗の声」といったところだろう。
真宗の伽陀(かだ)という、阿弥陀さんを礼賛するお経には、難しい節がついており、僧侶の声がマッチすることが最大の仏具になっていることが分かる。

このように仏様を自分に呼び込むために行う方法の違いによって、使う仏具が違うのである。

ただ、「大金」を叩く意味は、叩く木(シモク)と鐘(かね)が出会った時に音が出る出会いや御縁を教えるもので、物事や世の事象全ての出会いを示す「因縁」を示す仏具と私は教えている。

また自力本願は、「自分を清める」ことの意味が主だが、これを別の言葉で言うと「払う」という意味になる。
この「払う」の意味が仏具に大きく影響している。

そのための仏具は、「太鼓」であり「ドラ」、「ジャンジャンと鳴らすシンバルみたいな鐃鉢(にょうはち)」、山伏が使う「法螺(ほら)」などがある。

また他に「払う意味」を持っているものに、
「禅宗僧が良く使う、馬のしっぽのような毛を集めた払子(ほっす)」
「行脚して歩く時などに持つ、錫杖(しゃくじょう)」がある。
自分の前や周囲の「心を邪魔するものを払う」ために使う仏具である。

昔、インドでは、修行をする際、トラやライオンなどの獣、毒蛇、サソリなど襲ってくる邪魔者を「大きな音をたてて追い払う」と所から、このような仏具が使われるようになったと言われている。

このような仏具を使って、音を鳴らすのは、「邪魔者である煩悩を追い払って、自分の心を浄化、きれいにする」という意味が込められている。

現代は、意味を知らずに物事をゴッチャにして見る傾向があるため、訳が分からず、仏事に接している人が多いようだが、使う仏具には、それぞれに意味があることを知って欲しいものだ。

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