「合掌礼拝(がっしょうらいはい)」
〈更新日: 2002年02月25日 〉 ※写真が掲載されている場合は、クリックすると拡大表示されます。
先日、檀家の方がお寺に飛び込んで来た。
「和尚さん!! さっきラジオを聞いていたらこう言っていた」
「監獄に収監されている囚人達には、全員が共通して仏壇を持っていないことに気付かされたそうだ」
こう言ってラジオのトーク番組を解説してくれた。
たまたまの事なのか、共通する問題なのか判断は出来ないが、何か感じるものはある。
これもつい最近の出来事だが、
50年近く、あるお寺の檀家になっていた家の老人が、息子の所へ行くといって都会へ移り住んだ老人がいる。
ところがその際、仏壇をこちらの古い家に置きざらしのまま行ってしまったのだ。
気になって老人に理由を尋ねた所
「そんな一銭の金にもならない物はいらない。寺にかかわっていれば、金ばかり掛かる。都会に行けば、葬式ぐらい誰でもやってくれるさ。だから無益な仏壇なんぞいらない」
長男の息子がこう言って、老人に置きざらしにさせたそうだ。
老人は、「老いては子に従えです。どうにもなりません」と言って嘆いていた。
その後、その長男や家族の話しを親戚などから耳にしたところ、家族同志の絆は薄く、意見もばらばら、責任をなすり付け合うなど勝手放題、老人を引き取って面倒を見るどころか、投げっぱなしにしている状態ということを聞いた。
しかも老人は、長男ではなく次男の家の近くに身を寄せていても同居できず、大都会のマンションで一人暮らしを余儀なくさせられているとのことであった。
なんとも情けない話しで、現代における世知辛い風潮を見た思いがした。
要するに「情けや優しさのない家族」、「心のない社会」、「互いを信じ合う心を無くした無味乾燥の寂しい世相」と見えた。
仏壇を粗末にすることは、仏教信仰を捨てたことを意味する。
仏教信仰を捨てた世界は、他人に無関心になり、相互信頼を無くし、優しさや心を失った冷たい人間社会を作り出す。
先の監獄に収容されている囚人達は、仏壇を持っていないという共通する何かが見え隠れしているのが分かるような気がした。
自分だけの世界、その場だけが良い社会、その時だけが満足できれば良い社会、他人の命や存在を無視、抹殺している現代。
互いを拝みあい、尊敬し合う世界が全く失われている時代といえる。
こんな時代どうしても必要なことは、「相互礼拝」、「合掌礼拝」である。
互いを拝みあい、礼拝、尊敬し合う。
当たり前のことが本当に必要とされている。
タイ、インド、ネパールなど東南アジアの国々では、挨拶には必ず「ナマステ」と言って合掌する。
他人と出会う時、食事をする時、目上の人に礼拝する時、神仏に礼拝するとき、全てが万事合掌して会釈する。
会釈されて悪い気が起きる筈はない。
お返しに必ず「ナマステ」と合掌する。
この会釈は、ただ単なる挨拶だけではない、その裏には相手を思いやる礼拝の心が伴っている。
合掌には、3通りの内容があるといわれる。
1つは、「要請の合掌」所謂、頼みごとをする時に行う合掌。
2つは、「敬虔や帰依の合掌」所謂、神仏に敬愛の念を示す合掌。
3つは、「感謝の合掌」所謂、他人にお礼をする合掌。
である。
いずれの合掌も必要なものだが、最近は、頼みごとをする時に礼拝や心の伴わない合掌が多いのは周知の事実だ。
簡単に言えば、合掌という尊い行為を、自分の都合に利用しているにすぎない。
合掌の中には必ず「他人を拝む心」が含んでなければならない。
さらにそこには、お辞儀をする礼拝行為が伴う。
特に日本人のような礼拝を重んじる国ではそうだ。
そして「合掌礼拝」の行為には、「自他の利益」の意味が込められていることに気づかなければならない。
自分に他人の存在や影に気付くこと、これがなによりも大切。
「合掌礼拝」は、仏壇の中に納められている神仏の形像、先祖の位牌や遺影を拝む習慣を日常的に身に付けていることから訓練されるものだ。
木や金属で作った偶像を崇拝することは、形式ばかりで意味のないことと決め付けてしまう人ほど、他人を思いやる心が見えていない。
よく「お陰さま」というが、
私ども生きるために常に使っているもの全てに、自分以外のもの、他人の存在が介在している。
実は、この「陰」の意味が神仏の形像や仏壇の裏に隠れている。
見えない物に手を合わせ、見えない所に手を合わすことが出来ない人や社会に他人を思いやる心は生まれることはない。
「陰」に隠れている人間の大切な「心」を知るためにも、「合掌礼拝」が如何に大切か分かって欲しいものだ。