「終わりは、始まり」
〈更新日: 2002年04月09日 〉 ※写真が掲載されている場合は、クリックすると拡大表示されます。
4月、全国各地で入社式、入学式が行われた。
新しい年度の始まりは、とても新鮮で気持ちが良い。
3月に卒業と同時に押し出された若者は、新天地で新生活を迎えていることだろう。
私も、昔、王子製紙東京本社での入社式で当時の田中文夫元社長に入社の謝辞を述べたことを思い出している。
昨年までは、学生であったのに、子供であったのに、新入社員、新入生と一つづつ大人へと成長し、前進していく。
人間社会での様々な出来事は、常に前に進むことはあっても、後に戻ることはない。
新1年生に「1年生になったので、次は幼稚園かい」と尋ねると
「失礼だ、来年は、2年生だ!!」と怒鳴られる。
こう考えると、世の出来事は、科学的には、ほとんどが「不可逆の事象」であり、「可逆の事象」は、ないと見える。
なんと、実に不可思議なことと思う。
ここで「生命(いのち)」を宗教的な面から見てみる。
生命は、生命を母体に宿し、生命が生れ始めた時から、育まれて、生命が終わるまでは、ただまっしぐらに進むだけであり、もとに戻ることなどはあり得ない。
「不可逆の事象」の代表例である。
しかし、一度生命の営みが終わった後は、どうなるのかという素朴な疑問が残る。
一般的に、生物学的には「存在が無くなり」、「思考や意思は無くなる」のである。
しかし、宗教的に捕らえると「仏と成って生きる」のであり「魂は、神の御前において救われる」のである。
この宗教的概念は、
限られた時間の中で、ただ不可逆という制約が当てはめられている人間にとって、「未来永劫に、自分の生命だけは、確実に生きていたい」という純粋な願いから発想される。
密教においては、この意味を次のように表現している。
「阿(あ)」という1文字で示す考えであり、
所謂、「本不生(ほんぷしょう)」という考えである。
この言葉は、「サンスクリットのアヌットパーダー」という言葉の頭文字を取って表現されており、この言葉に「本不生」という意味を持っている。
「生も死もない仏の生命の世界」別に言えば、
「大日如来の世界」、「不生不滅」、「無色透明の世界」、「永遠不滅の世界」と言えるかも知れない。
弘法大師の御歌に
「阿(あ)字の子が、阿字のふるさと立ちいでて、また立ち返る阿字のふるさと」がある。
この歌は、大師より若く、早く、亡くなった弟、智泉大徳三回忌の法要の時に自ら導師を務めて詠んだ歌である。
この歌には、「本不生」という概念が如実に述べられている。
少し難解で申し訳ないが解説してみると
生命を宿す根源の世界から生み出され、現実社会での生命の営みを終えた後は、また生命の根源の世界、「阿(あ)」世界に帰って行くという意味を持っている。
「生命は輪廻転生する」という考えや「死んだら魂だけが肉体から離れ、魂だけが生き続ける」といった考えとは異なり、
「生きること、死ぬことも仏の生命の営み」と考え、
「その仏の生命(大日如来)は減ることも増えることもなく、常に仏の生命は、形を変えてでも存在し続ける」という、
可逆的事象として捕らえる大変ユニークな考え方に基づいている。
もっと簡単にいうと「無限の時間や空間の中に生きき続ける」という解釈ができる。
そして、これを「心」を通した信心世界の中で生きるのである。
さらに密教では、「ただ言葉で知るのではなく、修行などの実地体験をすることで、自ら心の中に必然に沸き起こり、知り得ることができる」と大日経に書いてある。
難しい説明になったが、
要は、俗世界の短い時間、狭い空間の中で知るのではなく、心の奥深い所で、じっと見詰め、感じ取れば、口に言い表せなくとも、独りでにわかって来るとされるのである。
私も、求聞持法(ぐもんじほう)を修して、深い喩伽三昧(ゆがさんまい)に入った後から、如実に分かるようになった。
そして、その大日如来の生命を感じるようになると、今度は、その生命を現実社会に積極的に活用しようとする姿勢が生まれてくる。
これが、実に不思議だ!!!
若者が、3月に卒業し、4月からまた新鮮に次の世界に挑戦しようとする心に良く似ている。
このような俗の世の出来事を見てみると、
人の心の奥底には、常に「大日如来」の「心」が潜んでいることが良く理解することができる思いがする。
4月の新しい空気にふれ、大日如来の世界が良く見えてくる思いがした。