昔の思い出と下座行(げざぎょう)
〈更新日: 2002年05月22日 〉 ※写真が掲載されている場合は、クリックすると拡大表示されます。
私が若い頃、王子製紙株式会社江別工場に勤務した経験がある。
今、その頃のことを思い出す時、何かしら恥ずかしい思いがするのと同時に、夢大きく、エネルギッシュな若者の「志」が浮かんでくる。
工業大学の大学院を終わり、胸膨らませての工場現場への配属。
しかし、意気揚々の志とは逆に、入社の半年間は、ただひたすら現場掃除に明け暮れ、それこそ悲嘆に染まったものだった。
当時の江別工場は、元北日本製紙株式会社の工場だったが、会社が倒産し王子製紙株式会社に吸収合併させられた時だった。
その直後に工場配属されたのだが、現場設備は古く、しかも経営姿勢や生産管理システムは、当時の高度成長経済にはマッチしていず、対応するにはそれこそお粗末なものだった。
私は、パルプ製造現場に配属されたが、そこには生産性が低くて効率の悪い時代遅れのバッチ式KPパルプ蒸留釜が設置されていた。
木材チップを約1時間10分ほど蒸留釜にて、硫化水素を含む苛性ソーダー黒液で煮た後、
洗浄タンクに一回々放出、
真っ黒な煮液をタンクから抽出しながら温水を注入して洗浄、
抽出した煮液はエバポレーターという高温濃縮機に移送して木材成分残渣を60%にまで濃縮してアルカリ回収ボイラーの燃料にする。
一方、パルプは、洗浄した後スクリーニングして良質パルプと不良物を分離、
洗浄パルプをチェストというストックタンクに送り一時貯蔵、
叩解(こうかい)といってパルプに弾力性と結合性を持たせるリファイニング工程を通した後、今では考えられない塩素漂白室へ移送、そこで塩素漂白、次亜塩素漂白、過酸化水素漂白を繰り返し漂白パルプを製造する。
懐かしい工場仕事の思い出だが、手間の込んだ効率が悪い生産システムだった。
現在これらの作業工程は、全てコンピューター管理され、環境に問題となるアルカリ洗浄液や
塩素廃液などは、外部には一切漏れ出さない工程が出来上がっている。
さらに塩素に代わり酸素漂白のシステムを取り入れているので、ダイオキシン化合物などを工程内部から排除しているようだ。
ただ、当時を振り返ると生産システムが古い為に、120%をも越える急激な生産増強には、
到底対応し切れないチグハグ弊害が随所に見られていた。
バッチ釜へ詰め込むチップの溢れ、収容し切れなくチェストから漏れ出すパルプ、タンクから漏れる汚い洗浄液、強烈なニオイ、外へ漏れ出すパルプ廃液、煤塵など、これらの処理は難題だつた。
これは高度成長経済の裏面に隠された影の問題点といえるものだろう。
そんな老朽化した設備の工場であったため、新入社員として約6ケ月、40度近くある工場で、ひたすら掃除を繰り返す毎日だったのである。
ただ同時に今考えて見れば、
古い設備の工場内での技術上、生産システム上、人事管理上の様々な問題点を探し出す毎日が与えられていたのかも知れない。
しかし優秀な技術職員として入社したつもりの心意気とは裏腹に、臭いニオイとホコリにまみれた3K掃除の毎日にはいささか参った。
多分、今では3日も持たずに「やめさせていただきます」と言うだろう思うのである。
当時の幹部は、
「現場を知らないと、将来、おまえが部下として使う現場作業員の気持ちがわからない。同じ立場になって考えてみろ」とよく言っていた。
作業現場は、3直4交代の昼夜を問わずに止まる事のない連続操業で、交代による操業労働、高温の汗まみれの掃除労働、そして夜間労働と、
それまで鉛筆を持つ事しか知らなかった私にとっては、つらい毎日であった。
しかし、6ケ月も操業現場にいて作業員と一緒になって操業し掃除労働を繰り返した事は、その後会社での仕事や生活には、大いにプラスになったことを覚えている。
「何事も現場に聞け」という言葉は、後で確かに自分の身に生き返ってきた。
現在は、そんな作業労働からは、ほど遠い仏門生活の毎日だが、その時覚えた「現場に聞け」という言葉は、何かにつけ役立っている。
実は、仏門見習に入った修行当時にも「下座行」と言って御堂や境内を掃除する行いが、毎日の第一義なこととされていた。
朝、4時起床、早朝の勤行の後、全員で下座行、そして日中、夕方、夜も何かにつけ下座行。
下座行のない時間は、勤行と座禅そして教学と法要の実践。
標高千m近くの山にある修行道場であるから、1年のほとんどの月は、ほんの僅かな夏期間を除いて実に寒い。
「あかぎれ」、「しもやけ」は欠くことがない、骨身に応えた下座行の毎日だった。
「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、下座行」が修行当時の毎日のスローガン。
その時、以前製紙工場での3K掃除による労働と仏門修行当時の下座行とには、実に共通した内容が潜んでいることが、良く理解できたものだ。
「下座行」とは、人と人とが交わる場所を「清めて」、「提供しあう」ことを教えている。
また、合わせて「下座行」を通して人同士の互いの心を清めあうことも教えている。
単純なことだが、物事の道理を理解するには、身をもって行うことから、自分がわかり、他人がわかる。
ここにも「自他の利益」の思想が生きている。
下座行は、そんな大きな意味をもっていることが、昔の製紙工場勤務時代の現場掃除や仏門見習当時の毎日の下座行を通して理解させられたものだ。