「お盆が教えるもの」
〈更新日: 2002年08月07日 〉 ※写真が掲載されている場合は、クリックすると拡大表示されます。
お盆を迎え、丁度一年の中間に差し掛かった季節となった。
お盆は、国をあげての民族行事であるだけに、国中に大移動がおきる。
ここ田舎にも多くの帰省者があり、お陰で田舎にとっても一番にぎやかな時を迎えられる。
また、お盆の行事は、季節の中間に位置し、「春、夏」から「秋、冬」へとバトンタッチする季節をつなぐ行事とも言える。
お盆に家族が帰省し、そしてお正月に帰省する。
これは、昔から故郷を互いに共有する東洋の民族独特の行事だ。
また、これを別の言い方をすれば、集団思考、集団行動を主とする民族が行う「家族の絆を結ぶ」行事とも言い換えられる。
多分、これは「お盆」が持つ、先祖崇拝の習慣を通した「親子愛、家族愛」などの精神が生きている姿だろうと感ずる。
お盆は、「ウラバンナー」という言葉の当て字だが、この言葉の内容は、「孟蘭盆経」の中に家族愛、親子愛、隣人愛などをポイントに描かれている。
お釈迦様の弟子の目蓮尊者は、亡き母を自分が身に付けた不思議な透視術、天眼通(てんげんづう)という魔力をもって探す。
すると母は、煮え湯がグツグツと沸きあがり、真っ赤な炎がゴゥーゴゥーと音を立てて燃え上がる、餓餽道という断崖絶壁に、足から逆さまに吊るされている姿を発見するのである。
驚いた目蓮尊者は、お釈迦様に尋ねる。
「どうして私の母は、そんなとんでもない所に、しかも逆さまに吊るされているのですか」
お釈迦様は、
「お前の母は、生前の行いの悪さ、悪業(あくごう)の強さで他人に危害を加え、良いことをしてこなかった。
その報いとして、餓餽道という世界に、しかもそんな姿で吊るされているのだ」
とお答えになった。
目蓮尊者は、お釈迦様のお話しに首をうなだれ、自分の母の生前の行いを詫びるのである。
そして、急いで沢山の食べ物と水を持ち、一人餓餽道の世界へ降りて行く。
餓餽道の世界で目にした母の姿は、目とお腹がドップリとふくれて出ており、首や足がまるで針のように細くなっていた。
母を哀れみ、必死に助ける目蓮尊者は、母に水と食べ物を与えようとするが、
母が水や食べ物を手に取って口に入れようとすると「パッ」と炎に包まれて消えて無くなってしまうのだ。
しかも、何度やっても同じなのである。
目蓮尊者は、これでは自分の力のみでは、母を助け出せないと悟り、現世に戻りお釈迦様の前に出向き、再度懇願するのである。
お釈迦様は、「そんなに母を助けたいのなら、旧暦7月15日、安居(あんご)という修行道場に、修行して身に付けた神通力を持った僧侶が大勢いるので、その大勢の僧侶に頼み、皆の力で助け出してもらいなさい」と諭す。
目蓮尊者は、急いで安居に出向き、僧侶達に、母を助けてくれるように頼むのである。
そして、目蓮尊者と多くの僧侶達は、
針のように細くなった喉に通る食べ物、「切子(キリコという野菜、米などを細かく切り刻んだ食べ物)」と「水」を持って、餓餽道の世界へ降りて行く。
そして僧侶達の神通力(じんつうりき)と伴に、母に食べ物と水を与え、餓餽道の世界から現世のまともな世界へ助け出すのである。
そして、喜びながら手を取り合って踊ったのが「盆踊り」とされる。
このお話しは、孟蘭盆経というお経の中に書かれている逸話であり、お盆のお参りには、必ず使う話である。
このお経の中に書かれている内容の主旨は、
「世の中の異常な状況を正常に戻す」こと、
「目蓮尊者の母親が、餓餽道という異常な世界に逆さまに吊るされる」こと、
「僧侶達の大勢の力を持って助け出し、正常まともな世の中に戻した」こと、
などに大きな意味を持つ。
また、「母を思う心と親子の絆」、
「お釈迦様という絶対に信頼する人の言葉を信ずることが出来る力」、
「神通力を持った僧侶達と協力しあえる心」
など、私たち社会に住む人間達が持つべき心のあり方、信心のあり方を教えている。
そして不思議な物語に合わせ、人間社会に不足しがちな「様々な、愛の姿、形」を確認する内容をも同時に書き記す。
昨今の世の中は、凍りつくようなゾットとする悲惨な事件が毎日、全国で発生している。
いかに人間社会の基本的な法、ルールが欠けてしまっているか嘆かざるをえない。
「生命(いのち)を尊ぶ心」、「親、子同士が愛し合う心」、「人間同士が愛し合い、信頼し合う心」、「社会秩序を保つルール」は、どうして今は、なくなってしまったのか。
「自己本位」、「自己中心」がここまで頂点に達してしまったら、未来の人間社会の存在は、最早、全く見えなくなってしまった。
「もう、明日には暗闇しか見えない」と嘆く人ばかりである。
「仏がなくんば、光明見ず」は、現在の世の中なのか。
こんなか中「お盆」の行事を通し、仏様の心を教え、人間社会のあり方を教える「お盆」の精神を今一度確認し、明日の生活に役立てて欲しいものと、切に願うものだ。