「檀那さま」
〈更新日: 2002年11月08日 〉 ※写真が掲載されている場合は、クリックすると拡大表示されます。
檀那さまといえば、今では各々家のご主人を示すことが多い。
しかし、昔は、大きな商屋さんのご主人を指したものだ。
「ごはんを食べさせてくれる人」と言った方が分りやすいかも知れない。
「檀那さま」をもともとの言葉、サンスクリットで述べると「ダルシナー」となる。
「ダルシナー」を中国式の音読みの漢字に当てはめて「ダーナ」となり「檀那」となったものだ。
では「ダルシナー」とは、何だと言えば、それは「お布施」を意味することをいう。
私どもが通例行う法要の際、参勤してくれた僧侶に対しお礼をするが、その時のお礼の上書きに「達親(たっしん)」とか「志」と書くことが多い。
これらの言葉は、皆お布施を意味するものだ。
だから「ダーナ」であり「檀那」を意味するものなのである。
そうすると世の「檀那さま」とは、差し詰め家や家族にお布施するご主人ということになる。
では「お布施」とは何だろうか。
一般に「お布施」とは、お坊さんに支払う「お金」を意味しているように考えているのではないか。
確かに、それも一理ある。
しかし、実際にはもっと深い所に意味がある。
「お布施」とは、自分以外の他の人に対して「心を振り向けてあげること」を言う。
だから「お布施」には、物質で行うものもあれば、自分の「心」や「身振り」、「態度」で示すものもある。
また「物質」で示すものは、「お金」もあるし「物」もある。
私どもの田舎では、農家の方々は、収穫時期になれば「家でとれた大根だ、食べるか」といって玄関に放り投げてゆく。
また漁師さん達は気前が良い。
「お寺さん大漁だ。これ持ってけ」と取れた魚を一箱、二箱は当たり前、食べても食べきれないだけ分け与えてくれる。
また、私が甘いもの特に「ぼた餅」が好きなものだから、各々家にお参りに行けば必ずと言っていいくらい「ぼた餅」を用意している。
また、お昼に成ったからと言って、ソバや御飯も用意してくれる。
「お寺さんに食べてもらいたいんだ・・・」と家族の人達が言ってくれる。
実に、心の優しさが伝わって来て、ありがたい思いになる。
田舎には、まだ「心の温かみ」、「心のつながり」の大切なものが残っている。
これこそ「ダーナ」であり「檀那」そのものだ。
「ダーナ」は、ただお金や物をやり取りできれば良いといった単純なものではない。
やり取りの中には、必ず「心が備わった行為」であることを示している。
「心の備わった行為」の中で、もっとも端的に示している「ダーナ」がある。
それは「無財の七施」というものだ。
「和顔悦色施」・・・笑顔を絶やず、常に他に提供できること。
「言辞施」・・・・・言葉で他人をいたわる施し。
「身 施」・・・・・ジェスチャー。態度で示す施し。
「眼 施」・・・・・いたわりの眼を持って示す施し。
「心 施」・・・・・慈悲の心を持って示す施し。
「牀座施」・・・・・座席を譲ってあげる施し。
「房舎施」・・・・・掃除をするお施し。
この七つをいう。
実は、人間社会にとって、また一人一人の人間にとっても、このお布施こそがなにより大切なものだ。
このようなお布施が社会の中で当たり前に、ごく普通になされていることが本当のお布施なのである。
「ダーナ」、「お布施をすること」は、何か特別なことをすることを言っているわけではない。
まして、このことで名誉を当てにしたり、表彰の対象を当てにすることは、あってならないものである。
表彰制度、叙勲制度を批判するつもりはないが、現代の風潮には、本質から離れた形ばかりを追っかけた、見せかけの制度ばかりが横行している。
それどころか、本来あるべきの慈悲の心を持った人のつながり、社会の仕組みが全くなくなってしまった。
このことは、未来にをつなぐ子供達の成長には、決して良い効果をもたらしているとは言えない。
私どもの田舎の小学、中学校でさえも、心を失った子供達が乱れ、荒れている現実を見る。
いじめ、先生に対する反抗、暴言、暴力、授業放棄、タバコ、風紀の乱れ、保健室逃避、完全な学校崩壊の現実だ。
先生達の自信喪失、親たちの危機感、何か全てが後手々で対策が追いついていっていない。
今は、本当に手の施しようの無い無法地帯の現状のようだ。
いかにも心を失った現代社会の縮図を見る思いがする。
先生方に自信を持って欲しいのと同時に、親や地域社会にもう一度、当たり前の心のつながりのある、思いやりのある人の集まりが作られなければ成らないと悲嘆に感じている。
その為にも「ダーナ」、「檀那さま」の思想をもう一度思い出し、実践して欲しいものと願っているところだ。