「自覚すること」
〈更新日: 2003年05月28日 〉 ※写真が掲載されている場合は、クリックすると拡大表示されます。
先日、若干28歳の若者が、不慮の交通事故で亡くなった。
たまたま、ご縁があり私が葬儀の取り置きをした。
亡くなったとの知らせを聞いて、すぐさま駆けつけたが、その時家族の悲嘆さは計り知れるものではなかった。
ご両親は、あまりの突然の出来事で呆然自失であった。
昨夜まで親戚の結婚式のお祝いとかで、大騒ぎをしていた本人であっただけに、
一体何が起きて、どうなっているのか、目前の出来事を受け入れられる様子など有り得なく、ただ狼狽、困惑するのみであった。
父親は、
さかんに「起きろ!!、起きろ!!」と声を掛ける。
「何で寝ているんだ」、「どうしたんだ」と答える筈もない我が息子に必死に声をかけ、大声で嗚咽していた。
「まだ、死んでなんかいない」
「お経なんか聞きたくない」
「この次は、お前の結婚式なんだぞ!!、なんでこんなことに・・・」
まさしく半狂乱そのものの姿だった。
母親は、
「これが現実なのか」
「夢ではないのだろうか」
「ああ、どうしよう」
「息子が死んでしまった。ああ・・・」
探す言葉もなく、現実の目の当たりに響く声は、家族の悲嘆な声だけであった。
周りのものは、目に涙を浮かべているが、皆おしなべて沈黙している。
重苦しい空気が漂っていた。
ひときわ愛情深く、我が子に全てを注いでいた心のあらわれといえる。
これも今から10年ほど前だが、鳥取県出身の24歳の若者が、苫前町古丹別霧立で事故を起こし亡くなった。
父親が年をとってからの一人息子であり、英才教育を施して、家族の期待を一心に背負って社会にやっと出たばかり、突然起きた事故だった。
事実を受け入れられなく、周囲に当り散らしていた父親の姿を思い浮かべる。
その時も私が取り置きしたが、事故後 7年にわたって、遠く鳥取県からこの地を訪れ、事故の起きた日、事故現場で、亡くなった本人と老体の父親の心を慰める法要を繰り返した。
そのお父さんも、昨年息子への思いが癒えぬまま他界した。
私も僧侶となり約20年を過ぎたが、この種の取り置きは、かなりの数に登る。
しかし、その都度胸の詰まる思いをしながら葬儀の導師を務める。
その時には、何とも言いようのない思い、悔やみばかりが心に響き、遺族にどうして上げる事も出来ないもどかしさと情けなさを感じる。
「現実を迎え入れてください」と遺族の方々に申し述べるが、その辛さは他人に言えるものではない。
こんな時によくお説教に使う材料が、キサ・ゴミータの逸話である。
この逸話は、お釈迦様のご在世当時、布教で村々を回っていたある時の話である。
お釈迦様が、布教のため立ち寄ったある村で、流行の疫痢のために最愛の我が子を亡くした母親、キサ・ゴミータが半狂乱になって
「我が子を蘇らせてくれ」と泣き叫ぶ姿があった。
その姿を哀れんだ村人が、
「最近、聞きしに勝る大聖人のお釈迦様がおられる。きっと何とかしてくれるから頼んでみるがいい」とキサ・ゴミータに言った。
キサ・ゴミータは、急ぎお釈迦様の前に出向き
「どうか最愛のこの子を死から蘇らせて欲しい」と哀願するのである。
お釈迦様は、母親に対しこう答えた。
「死んだ我が子を蘇らせたいと願う貴方の気持ちは良く分かった。よろしい、それでは私の要求に応えてくれたら、何とかしてあげましょう」
「この村の中から、まだ死者やお葬式の出した事のない家から、ケシ粒の実をもらってきなさい。そうすれば、そのケシの実を調合して、その子を蘇す薬を作ってあげましょう」
キサ・ゴミータは、喜びいさんで村じゅうの家々を一軒々まわるのである。
すると一軒目の家では、
「申し訳ない、昨日親がなくなりましてお葬式を出したばかりなのです。ですからケシの実を上げることは出来ません」
次の二件目を尋ねた家でも
「昨年、子供を亡くして葬儀をしました」
三軒目の家でも
「葬儀をだしたばかりです」
村の全ての家々を回っても死人やお葬式の出したことのない家はありませんでした。
途方に暮れていたキサ・ゴミータは、最後の家を回り終えて「ハッと」気付いたのでした。
「ああ、お釈迦様は、死人を蘇らす薬が目的ではなく、私に、きっとこの世では、死は避けられないものだということを知らしめるために、あのような事を言ったのだ」
「世の中のあらゆる事は、常に移り変わるもの」
「死は、避けて通れないもの」
「これは、自明の理であること」
「そして、この自明の理を自ら真正面から見据えていかなくてはならないこと」
ということを理解したのであった。
キサ・ゴミータは、それ以来お釈迦様の弟子になり、尼僧として一生を過ごしたというお話である。
この逸話が示すように
「物事の有り様は、常在不変のものはあり得ない」
「諸行は、無常である」
「そしてこの事実をまともに受け止める心を持つことが必要」
即ち「自ら自覚しなさい」と仏様は、お教えしている。
突然の不幸、突然の災難は、自分だけに降りかかっていると錯覚しがちだ。
しかし、決して自分だけに特別に試練を与えているわけではない。
自分にも他人にもおなじように試練を与えているのであり、諸行は、無常であるということを、真正面から受け止める「心」をもつことが必要とされる。
そして、その上に立って自分歩む道をどのように探るのか、自分自身をどのように作っていくのかを教えている。
これを「自覚すること」という。