「智、情、意」を見失った日本社会
〈更新日: 2003年07月22日 〉 ※写真が掲載されている場合は、クリックすると拡大表示されます。
先日、長崎市で12歳の子供が4歳の子供を誘拐し殺害した事件は、日本社会を震撼させた事件だった。
また、近年子供に関する凶悪事件、金銭、性的関連の凶悪事件が後をたたない。
そしてこれら凶悪事件の数多くは、少年など若年者により引き起こされている。
少し程度は違うが、私ども田舎においても、荒れる中学校を通して、さまざまな事犯に頭を悩まされている現実を見る。
これら事件の背景には、不景気などの経済的要因、高度に発達した社会構造に共存適用できない若者の存在などに要因があるようだ。
経済社会が成熟した現代日本社会でのこの種の事件は、アメリカなどと並び豊かな国での常習的に起きる、一種の社会の退廃事件と言えそうだ。
しかし、ついひと昔前の日本社会はそうではなかった。
人間同志が、お互いに信じあい、お互いを助け合い、互譲精神のすぐれた、仏教精神が隅々まで行き渡っていた国であった。
そのため世界一安全、安心の持てる治安の優れた国とされていた。
それが、これほどまでに退廃してしまったのは何故なのだろうか。
私など昔を知る人間は、過去における日本人の持つ「優しさ」、「いたわり」そして何より「他人を思う心を」知っている。
まして「生命を尊ぶ心」、「仏教が教える心」は、皆全員に共通して自然に持ち合わせていた。
それが、現代日本社会に住む人たち全員が異句同音に、「今の日本社会は、おかしい」と感じている。
何を失ったのだろう!!
一言で言えば、仏教的モラル、仏教的社会規範がなくなってしまったということだろう。
このことは、私ども仏教家にも責任があるが、政治、教育、宗教など「人間の心の拠り所を担う全ての所」に責任がある。
まして一部の偏った宗教政党が、政治の中枢で幅をきかせ、自己の宗教思想を日本社会の中に影響させようとする政治行動が見られる事は、今日の日本社会が重大な危険水域に達しようとしている時、イビツで偏った政治構造が出来ていると見ている。
これでは、信仰の自由、思想信条の自由を保証されている国の中で、今日の問題に対して、責任ある解決作を見出す事は到底出来るとは思えない。
ここには、問題ありと指摘したい。
また先般の長崎市での事件で、犯罪を犯した生徒が通うと見られる先生が、自分が教師としての「力のなさ」、「ふがいなさ」を事件現場のビルの下に置かれた手紙の中で切々と訴えていた。
訴え通り現在の教育現場、教育関係者には、この種の問題に関して教師としての対応策を完全に見失っていることを知らしめている。
さらに加えて教師も含めた全ての日本社会に生きる一人一人が、生命の大切さなど心の根本問題への解決策を見失い、迷走している姿を見せ付けている。
誰に責任があるということではない。
「日本社会の全て」
「大人の全て」
「子供の全て」
これら日本人全ての心の中に「心の欠陥」が生じている。
もう一つ加えて感じることは、日本社会全体に幼稚化、幼児化が見えることだ。
青年も、古い大人も、自己の幼稚性、幼児性に気付いていない人が多い。
現代日本社会での、人を評価する尺度は、お金、宝物、裕福豪華な暮らしだ。
その裏に潜む「他人の生命を踏みにじってでも、殺してでも自分だけは生き延びなければならない」といった興醒めする「すさんだ心」を社会の人々は見ていない。
ここには、「全てが自分の思い通りにならないと満足できない」と言った、幼稚でわがままなな幼児性を想定させる。
「どこかおかしい」
ここにも問題ありだ。
仏教社会は、西洋の神が支配する、一つだけが正しく、それ以外は異端抹殺する存在価値と見据える信仰精神とは違う。
常に自と他が共存し、存在価値を互いに認め合い、互いを共有する姿勢を持つ、いたわりと優しさを持つ社会が仏教社会である。
昔の童話「桃太郎」は、他人をいじめ、他人を踏みにじる者、それは鬼が島に住む鬼だが、強い桃太郎が、鬼が島へ行って、悪者を駆逐するお話である。
月光仮面も、赤胴鈴之助も、まぼろし探偵も皆同じストーリーだった。
これらの童話や漫画に示される内容からは、当時の子供達には、「弱い者は、助けなければならない」といった心が育まれた。
弱きを助け強きを駆逐する月光仮面。
古臭い昔のつぶやきだと言われれば、そうかも知れない。
しかし、現実の日本社会には、その古臭い何かが必要とされている。
所謂、人を思う感情、「情」である。
そして昔は、国を発展させるためには旺盛に知識、智恵も要求された。
「アメリカに追いつけ、追い越せ」が合言葉で「国産品を愛用せよ」が合言葉だった。
国を思い、社会を思った。
そのためには、身を粉にして働き、勉学に励んだ。
とにかく一生懸命だったのである。
ここにあったものが、所謂、知識と智恵の大切さ「智」の必要性である。
さらに日本の国土を発展させるために、自分が率先して働き、行動しようとする勇気、所謂、「意」があった。
先日のテレビでは、約417万人ものの若者が働きたがらない現状を報道していた。
理由は、「働くよりも、遊ぶ方が楽だからだ」そうだ。
現代若者は、腑抜けになっている。
物事を前向きに捉え、立ちふさがる壁や敵を打ち砕く勇気がなくなっている。
敵前逃亡だ、それどころか逃げの不甲斐なさを、弱者へのいじめへと向かっているようにすら見える。
人間には、「生きる智恵」、「他人を思いやる感情」、「生き抜く勇気」の3拍子がバランスよく整っている必要がある。
昔の人間達は、それが全て上手に整ったとは言わないが、少なくとも「智」、「情」、「意」の3つは失ってはいなかった。
仏教精神が欠落した人間達の集合社会が現代だとすれば、ここには大いに問題ありと言える。
オウム事件が宗教精神を荒廃させた切っ掛けを作った事件と見るが、宗教者は、この時こそしっかりしなくてはいけない。
さらに国や社会を担う若者が退廃傾向にあるということは、やはり国の政治に欠陥があるところに行き着く。
現在、国が考えている教育基本法改正、生きがい労働のあり方対策、憲法改正などは、現代日本に起きている様々な社会的欠陥問題を見るとき、速やかに対応する時期に来ている。
これには、一部宗教政党の思想に左右されることなく、日本の国が今後将来に向かってどうあるべきかを真剣に論議されるべきだ。
先般、私からも主張したが、今日の日本社会、日本人には、心の底流を流れる根本精神、所謂日本のアイデンティティーが欠落してしまっている。
この日本固有のアイデンティティーを早急に確立し直す必要がある。
そして、そのときには、日本人が持つ素晴らしい思想である「自他の利益」の思想をアイデンティティーの基本に持つべきと主張したい。
そのためには、政治かも大学教授も社会リーダーも専門家たる人間達は、「自他の利益」の思想を含む本来の仏教思想を良く勉強するべきだ。
そして、仏教精神の根本を学んだ心を持ち合わせた人間同志により日本の政治、社会を牛耳って欲しいものとつくづく感じる。