「1年の計は、元旦にあり」
〈更新日: 2005年01月02日 〉 ※写真が掲載されている場合は、クリックすると拡大表示されます。
あけましておめでとうございます。
昨年は、台風、地震、温暖化などによる風水害の極めて多い年でした。
また、誘拐、殺人、窃盗、詐欺など凶悪事件が多発した不安で暗い年でもありました。
果たして本年はどうなるのか「一年の計は、元旦にあり」と言ってみても予測の立ちにくい年頭です。
また昨年は、「冬のソナタ」を代表する韓国ドラマを切っ掛けに韓流ブームが沸き起こった年でもありました。
私も多分にもれず「チャングムの誓い」に夢中になるほど韓国ドラマを見入っている一人でもあります。
昨年、12月に「何故、韓流なのか」、「冬ソナなのか」の特集番組まで組まれるほどでした。
この番組で紹介されていた共通内容は、「日本人が失った心」であったように思えます。
「過去にあった日本の心」、「過去にあった日本人の青春の心」を再び中年を含めた多くの人が追い求めたのだとの結論が出されていました。
「日本人が失った心」の中には「日本がもともと持っていた宗教、精神文化」を失ったとされ、そのことの危機感がどれほど募っているのか指摘されています。
その実例に「おれおれ詐欺」、「振り込め詐欺」があります。
これらの事件では、お年よりや子供、女性などむしろ弱者と称せられるものを食い物にし、交通事故や地震災害など不幸を逆手にとって事件をおこすなど従来の日本社会では考えられなかった人の心、善良の心を踏みにじった凶悪事件です。
しかも犯罪者の中に小中高生の低年齢者が公然と名を連ねていることは、実に興醒めする実態を知らされます。
「これらの事件が示し象徴している、心を失しなった日本社会は、必ず滅びる」とまで囁かれている現実です。
「昔は、悪い事をしたらバチが当たるぞ」、「仏様が見てござるぞ」と宗教的自制心が社会の中に当たり前にはびこっていました。
しかし今は、「罰を忘れ、罰を恐れない無戒無律の人間」が当たり前に社会の中をカッポしています。
このため「ああ、どうしてこうなんだ、昔は、良かったな」と述懐するばかりの毎日です。
また加えてIT化の進展と国の行財政改革の進展により「心のふるさと」であった地方の田舎の崩壊凋落が顕著になったことです。
私も地方の議会議員の末席を汚しているものの一人ですが、実感として田舎凋落の実態を目の当たりにしています。
負債を抱えたもの同志の町村合併の難しさ、国、北海道からの田舎切り捨て政策などどれをとってもただ諦めとグチばかりが言葉になってしまうものでした。
本年からは、いよいよ地方分権時代幕開けを象徴して北海道政府樹立に向けた道州制の論議、地方交付税の地方税への切り替えが始まります。
しかし財政の乏しい田舎にとっては、言いなりのなすすべが見当たりません。
「どうすれば田舎は生き残れるか」、「本当に地方の田舎町はなくなってしまう」と寒気が背筋を伝ってきます。
希望のない不安感ばかりが漂い、今の足元だけを気にする夢の無い現実を歩んでいる田舎人の生活を見ます。
今では、「心のふるさと」を提供できるだけの元気すら失いかけています。
そんな中、昨年12月6日付けの読売新聞に梅原猛さんと津本 陽さんが宗教や道徳と日本人の心、日本社会との関わりについて述べた論文が載っておりました。
その2人に共通したものは、「宗教、道徳を失った日本」、「いまこそ宗教の大切さ」、「自己の修練と他者への慈しみの必要性」などを強調する内容でした。
たまたま私も11~12月にかけ道東に布教に出かける機会がありました。そこで行ったお説教の内容も、このお2人の論文から頂戴させていただいたものでした。
中でも梅原 猛さんの主張をとりあげさせていただきました。
梅原 猛さんは、戦争体験者です。
梅原さんは、「戦争で個人の意思に関係なく無残に殺されていく姿を見て、人の命を救うべきはずの神は、どうしていないのか」として無神論者に成り下がっておりました。
それが戦争を終えて大学に復帰した後、ドストエフスキー作の「カラマーゾフの兄弟」に出くわしました。
そして、そこに示されていたドストエフスキーの思想に共感して、宗教の大切さ、必要性を知ったと言っております。
その後、空海に出くわしたことが仏教の中でも特に真言密教に傾倒する仏教者になり哲学者になったと述べています。
「カラマーゾフの兄弟」は、カラーマーゾフ家三兄弟の生き方、考え方と、酒、女、金を求め他人を踏みにじっても自分の欲しい物を手にしようとする貪欲人間である父親フョードルカラマーゾフ。
そしてフョードルが妾に生ませた異母兄弟であり、カラマーゾフ家の一員として扱ってもらえず、奴隷の如くこき使われ、いつも父親フヨードルを憎んでいるスメルジャコフ。
これらの人々の間に起きたフヨードル殺人事件を中心に展開される一種の推理小説です。
父親フヨードル殺人事件は、事件に絡む三兄弟の様々な生きかた、人間としてのあり方と実際に殺人の手を下すスメルジャコフとの間に起きる思想、宗教観などが底流に流れ、当時の社会情勢に秘む社会的問題点を背景にして壮大なスケールで描かれます。
実直でまじめだが自分が気にいらないとなると何をするかわからない性格の持ち主である長男ドミトリー。
無神論者で神様など存在しない、宗教は必要ない、その為宗教にもとづく道徳なども人間社会には必要ないと説く次男イワン。
敬虔なギリシャ正教の信仰者で神様の存在を認め、宗教による人間や社会の救済を必要と主張する三男アリョーシャ。
この三兄弟と異母兄弟のスメルジャコフとの間に展開する思想、宗教への考え方が事件の問題点を掘りさげてゆきます。
ある時、父親フヨードルが殺されます。
最初は、長男ドミトリーが疑われますが、最終的には腹違いの兄弟であるスメルジャコフが殺した事が分かります。
スメルジャコフを逮捕し取り調べを行ったとき、父親フヨードルを殺した動機を聞いたところ、重大な動機の背景が潜んでいた事が分かります。
それは、次男のイワンがスメルジャコフに、自分が展開する無神論の思想を話したことが原因になっていました。
イワンは、「この世に神様など存在しない。だから神様の教えに沿った人間社会を牛耳る宗教道徳や宗教的規範など存在しない。道徳や規範がありえないのであるから人間は、何を行っても良いのだ。問題を起こしても神様に許しをこう必要はないのだ」
このような考えをスメルジャコフに話します。
学問をした事のないスメルジャコフは、高学歴の学問を身につけた学者的なイワンの言葉をそのまま信用してしまいます。
そうしてスメルジャコフは、「イワンが言っていることは全て正しいのだから、日ごろから憎んでいる父親フヨードルを殺したって何の問題はないのだ。神様は、存在しないのだから道徳や規範は存在しない。だから殺人を行っても何の問題はない、神様に許しをこう必要はないのだ」
このように考えて父親フヨードルを殺してしまいます。
この殺人事件がイワンが主張した無神論の思想を背景に起きてしまったことに、イワンは驚愕します。
そして、無神論が殺人まで容認してしまった自己の主張に対し、心底から動揺し、この思想の最大の欠陥を知るのでした。
そして、とうとうイワンは、気が狂ってしまうというストーリーが展開されて行きます。
ドストエフスキーは、当時の社会情勢に潜む社会の問題点、人間の心の問題点をあからさまに指摘し、社会や国を批判している姿勢が見られます。
また今日のロシアでは、このような暗い歴史を内蔵する過去の社会や国のあり方を返上して、今再びギリシャ正教会の力を借りて宗教に根ざした社会づくり、人づくりに必死になっていると説明しております。
梅原先生は、この問題点を現在の日本に置き換えて考えております。
そして、現在の日本社会、そこに住む日本人の心のあり方がドストエフスキーが主張する当時の社会情勢と人間模様が同じだと警告しています。
そして、心を失った日本社会、日本人の現代に起る様々な凶悪事件には、ドストエフスキーが論じた背景と酷似したものを見ることが出来ると論じています。
現在の日本では、無宗教であることが文化人、知識人であるが如くの錯覚が蔓延しています。
そして、その結果が今日の無残な結末を迎えているといえます。
心を失った日本社会、日本人では、国は崩壊します。
こんな兆候が見える今、何とか早いうちに手当てをする必要があります。
「一年の計は、元旦にあり」と言われます。
今年の元旦からこそ、これから百年の計とも言うべき、心を取り戻す宗教、そして宗教にもとづく道徳の確立を行う必要がある時を迎えたといえます。
宗教特に仏教には、自己の修練とそして他人を思いやれる心(慈悲心)を教えています。
まさに、このことが大乗仏教が教える根幹です。
自己を修練し他者を慈悲心で包み込む所謂、「慈悲喜捨」の心の必要が今こそ求められていることを知って欲しいものです。
田舎がなくなるかも知れないといった夢や希望を失った中でも、自己の修練と他者への慈悲心は同様に必要とされます。
不信を排して、信にもとづく人間と社会をどうしても作り直さなければならない一年元旦を迎えたというべきでしょう。