【高野山真言宗成田山真如院(羽幌本院・札幌分院)】札幌・羽幌での十三参り・水子供養など

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「まだ」と「もう」の時間の違い

〈更新日: 2007年03月21日 〉 ※写真が掲載されている場合は、クリックすると拡大表示されます。

平成19年が明けて早くも3月弥生を迎えた。
3月は、卒業の季節であり、そして4月は、入学の季節を迎える。
終わりを迎えて始まりを迎える季節でもある。

私事だが、羽幌町議会議員も今年で3期12年を迎えた。
ここで、一区切りをつけるために今回、議員を降りることにし、先日議会や行政職員の皆さんを前にご挨拶をさせていただいた。

ここで少し昨今の地方議会について記述しておきたい。
昨今の地方議会は、取り扱う議事内容が複雑多岐にわたっている。
しかも、地方交付税交付金の減額などで行政予算が減額せざるを得なく、議会や行政には新たな発想や工夫した発案が伴った議論を必要とされていることから、議員各位の普段の勉強は、正確で内容の濃い資料収集が要求されている。

最近は、インターネットで国や北海道、また海外からも比較的容易に情報や資料が入手できるようになった。
以前は、各関係機関に問い合わせても回答が得られるまでには数ヶ月を要したものだ。便利になったものである。

ただ、容易に情報や資料収集ができることになったことは、行政側についても同じことが言え、議会と行政の両方が同じ資料を簡単に手元に置くことが出来るようになったことを意味している。

このため、さまざまな情報を下に議論しやすくなったことは事実だが、段々と内容が深く、高度になってきたために、予算がないことと絡んで行政側からは、安易で前向きな回答が得られにくくなってしまった。
さらに議事録が残ることもあり、行政側からはより慎重で、曖昧さが目立つ内容のものが多くなっているように見える。

しかし、わが町羽幌町議会は、大変勉強熱心な議員さんが多く、一般質問に立つ議員は、それこそよく調査、勉強していることに気づかされる。
また、議論の仕方が、質問の文章を提出してから行政側から回答を得たほかに、提出した質問について30分間にわたり自由にいろんな角度から質問し、行政側と議論し、やり取りできるようになっている。


この為、議員各位には質問の仕方が実に上手になっていることが伺える。
そんなことがあるせいなのか行政側からの回答も狭い範囲にとどまり、あまり目に見えた内容にはなっていないように感じている。
しかし、全国地方議会の中でこのような一問一答方式を用いて議論を行っている議会は、わが町だけと自負しているので、大変充実した雰囲気を感じられている。

このような議会に3期12年過ごさせていただき、卒業時期を迎えたのである。
この間、北海道立羽幌病院の増改築の完成、酪農ヘルパー制度の実現、ニシン漁対策としての藻場造成対策、財政のペイオフ対策の実現、公共事業に関するPFI事業方式の導入実現、財政のバランスシート方式の導入実現、幼稚園と保育所の一元化対策、議員定数削減の実現など結構、実効性のある大きな対策が実現できた。
今、振り返ると「結構、やったな」と自己満足している。

しかし、議員を降りるにあたって「もう3期12年をやりま終えましたので一区切りつけます」と表明したら「まだ、3期じゃないか、どうして降りるのだ」といわれた。

私は、一度口にした言葉に責任をとるのが議員としての筋と考えている以上、私の言葉に従っただけなのだが・・・

また、「もう60歳の定年年齢に近いし降ります」と言うと「まだ、60歳前でしょう。これからだよ」とも言われた。

「もう」と「まだ」では、同じ言葉の内容を表現しても大きな違いがある。

 先日、NHKBS2で小椋 桂さんのコンサートが放映された。
その時、小椋さんは中村雅敏さんと対談する場面があった。

その際、中村雅敏さんが小椋 桂さんに対して「小椋さんは、いくつになったのですか」と尋ねる場面があった。
そのとき小椋さんは、「もう、63歳になりました。でも僕は、まだ63なのですよと言っているんです」と語っておられた。

さらに小椋さんは、
『60歳のときにガンが見つかり「死」を目前に見たときに自分は、変わりました』
『「死」が恐ろしいというよりも、ああー、くるべきものがとうとう来たかという感じでした』
『それなら、むしろ自分に向かってきたものをそのまま受け止めよう』
『「死」を受け止めて、そこから自分を再出発させてみよう』
と考えたのだそうです。
実に達観した心の状態が見えるものです。

そして、「死」を受け入れた心の状態から、もっと素直に自分というものをさらけ出すことが出来るようになったと言っておられた。

「何でもさらけ出してしまおう」
「そして、さらけ出して作った歌が、皆さんに少しでも自分、小椋 桂を感じてもらい、知ってもらうことが出来たら嬉しいなと思えるようになったので、僕は、コンサートを開く気持ちになれたのです」
と付け加えられていた。

これは、「もう、60歳だから、この程度ていいや」と思うのではなく「まだ、60歳だから、これからも何か出来る」という前向きの気持ちになったことを表している。

「一度、死んだ人間は、強い」とよく言われるが、「小椋さんは、ガンという病を持つことにより、まさに一度死んだ後、また再生して生気を取り戻した人そのものになった」と感じつつ小椋さんの語りを聞いていた。

小椋さんは、若い頃は、確か精神的に深く病んでおり、かなり重症であったことがあると新聞に自分を評して論評していたことがある。

そのせいなのか、作曲した曲の流れには暗さを感じるものがあるが、小椋さんの作詞の内容とそれぞれの作品に作曲された曲とが実にマッチしていて重厚感に加え心に共鳴を与えてくれる深みと奥ゆかしさをを感じさせている。

また、中村雅敏さんとの対談の中で、小椋さんは過去を振り返って、東京大学を卒業してから銀行に入った頃は、それなりに人と交わいながら社会とはどんなものであるかを知ることが出来た時代であったし、それなりに良い時間を過ごすことが出来たとも言っていた。

また、銀行員時代に書いた曲がヒットしてしまい、顔が見えない作曲家として興味深く見られていた時代でもあったと言っている。

そして、50歳を前にして銀行を退職され、その後シカゴの大学院に入って勉強されていたときにコンサートを開いて欲しいと依頼され、「1回だけ」と言って開いたコンサートがそれからコンサートを開くきっかけになったと言っておられた。

「1回だけ」と断っておきながら、また今日もこのようにコンサートを開いているのだから「ウソつきと言われてもしかたがない」と実に謙虚に気持ちを述べておられた。

小椋さんの言葉一つ一つの裏には、実に謙虚に自分を見つめ、奥行きの深さを感じさせるものがあるが、こんな謙虚さが全ての作品に流れていることを知るものだ。

小椋さんは、2000曲ほどの作品を作っておられるそうだが「甘いオムレツ」、「シクラメンのかおり」、「夢芝居」、「愛燦燦と」他など身震いするほど心に共鳴を与えてくれるものばかりであることを感じている。

その小椋さんを評している私も、60歳に近い年齢を迎えてしまった。
今風に言えば、定年を迎えた団塊の世代真っ盛りというところですね。

そんな世代の私も、ノンビリ過ごす時代を迎えればよいのでしょうが、こともあろうが定年の年齢を前に多額の借金を作って札幌市にお寺を作ったものです。

お寺の関係者からは、「年も考えずに、こんなに借金をして無謀そのものだ。誰が責任をとるのか。俺たちは知らないから勝手にしろ」と大層怒鳴られ、無視されたものです。

しかし、疲弊する地方から都会へ止め処もなく流出する人々。
そして、その事態から本来我が寺院の何事をも守るべきの人たちが、取るべき対策を見つけられないままに、切羽詰った今日の事態に指を加えて見ているだけの無策に対して、私の取った対応は、無謀というよりも適切で未来を見つめた対応を行ったと自負しているところだ。

ただ、他人から何を言われようとも、私には「やれる」という自信があったからこそ、ここまで達成できたとも考えている。

しかし、よくよく振り返ってみれば「我ながら度胸があったな」、
「あきれるほど良くやったものだ」、
「他者から批判されてもしかたがないな」とつくづく感じているところです。

「単なる坊主に、このような無謀なことを出来る能力はない」
「馬鹿ものだ」と毎日のように大変な罵声を浴びせられたものです。

そんな罵声も何のその、罵声を乗り越えて今日このように出来上がってしまったことは、「不思議」そのものだと感じています。

ただ、反対をした大勢のお寺の関係者達と僧侶である私の考え方の間に、根本的な違いがあったのではないかと今考えています。

それは「まだ、やれる」という物事への捉え方、考え方と「もう、やれない」という物事を捉える見方にあったのではないか、所謂、難しく言えば密教的価値観と一般庶民的価値観に生ずる考え方の違いがあったのだと感じています。

「まだ」と「もう」の言葉には、随分大きな違いがあることが分かります。

この言葉を密教的に見てみると、「まだ」は、未来を見つめている言葉、「もう」は、過去を見つめている言葉であることが分かります。

密教では、「終わりは、始まり」と言います。
別に言い換えれば「一つの生命が終わっても、それはまた、一つの次の生命が始まる」ことを言い表します。

「まだ」の言葉には、未来を見つめる内容を含んでいるとすれば、それは「如来の生命」そのものを言い表す内容を含んでる言葉につながっていることを見ることが出来ます。

そして、「まだ」は、ず~と未来へつながる時間を示しているし。「もう」は、過去から現在に至り、現在に時間が止っていることを示しています。

段々と年を取っていく年齢になると、「もう」が増える年齢になります。
しかし、「まだ」を感ずることが出来る年齢でなければ、これから未来へ歩んで行こうとする次の世代に心をつなぐことが出来ません。

いつまでも「まだ」を感ずる世代でありたいものです。

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