「ブータンの密教と日本の密教」
〈更新日: 2013年6月5日 〉 ※写真が掲載されている場合は、クリックすると拡大表示されます。
~“祈りの国ブータンへの参拝旅行紀行記” 住職 高山 誓英の記録~
ゾンの本堂に入ると、左手に壺を持ち、右の掌を上に向けて人々の救済を願う与願印を示す釈迦如来坐像がそびえ立つ。
背丈は、10メールを越すのではないだろうか。
日本では、左手に壺を持つ仏像は薬師如来が一般的だ。
私は、ドルジさんに「この仏像は、薬師如来なのではないか」と尋ねた。
するとドルジさんは、「薬師如来の壺は、息災の薬の壺、ここのお釈迦様が持つ壺は、托鉢の壺です」
「しかしブータンでは、托鉢の習慣がないので、この壺は、托鉢でご飯を頂くためのものでなく幸せの恵を頂くために持っている壺です」と説明があった。
面白いと感じた事は「ブータン密教の主流は、庶民のささやかな願いを仏様に成就して欲しいと願う、いわゆる現世利益の信仰が背景にあること」を理解したことだ。
密教は、7世紀にインド中部で新しく起こった。
この時の密教は、初期密教と呼ばれる。この当時の密教は、仏教の中でも新進気鋭の新しい教えであった。
その新しい密教をインド人の金剛智三蔵や善無畏三蔵がいち早くインドから唐(現、中国)の長安に伝えた。
そして、長安(現、西安市)で密教を継承し正統な密教継承者となった僧が唐の青龍寺恵果和尚であった。
インドで発祥した密教は、僅か100年程経過した806年、猛スピードで日本に伝わった。
今とは違う当時の国際状況を考えて見れば異例の速さの伝達としか言いようがない。
その最先端の思想や教えであった密教を日本に即座に伝えた高僧が弘法大師空海である。
弘法大師空海は、青龍寺の恵果和尚から当時1千人程いたとされる弟子の中からただ一人選ばれて密教を継承した。弘法大師空海が恵果和尚から継承して日本に伝えた密教のことを中期密教と呼んでいる。
弘法大師空海は、継承した中期密教を日本において布教するため807年真言宗を開宗した。
一方、インドで発祥した密教の一部は、インドからラダック、シッキム、ネパール、チベット、ブータン等ヒマラヤ山岳周辺地域に伝わって後期密教として発展した。
ブータンには、14世紀頃チベット密教の高僧がブータンに渡り後期密教を伝えたようである。
しかし現在は、後期密教が純粋に生きている国はブータンのみだ。
と言うのも密教の総本山であるチベットは、中国共産党政府により宗教弾圧されて自由な宗教活動が制限されている。
その為、今日チベットでは、若い僧侶達が連日のごとく焼身自殺をはかって中国政府の宗教弾圧に対して抗議をし続けている。
この抗議運動は、祖国を奪われたチベット人の悲痛な訴えであり、宗教弾圧により信仰と心の拠り所を失い、人権を失ったことに対する悲惨な抗議行動だ。
同じ密教を信仰し、密教を心の拠り所とする私にとっては、心の傷む、怒り心頭する心境だ。
ブータン密教は、最初はチベット密教ゲルグ派(現代14世ダライラマ系の流れ)が主流であった。
ゲルグ派では密教経典に加えて大乗仏教経典も読むので、チベット密教が伝わった当初は、大乗仏教経典も読んでいたようだ。
しかし、カギュ派、ドゥク派、ニンマ派の密教高僧がチベットから渡って密教を布教し始めてからは、密教経典を中心にした現代に通じるブータン密教が成立したらしい。
その為、ブータン密教の本堂では、本尊としては釈迦如来を祭るがその両脇に祭る仏像は、チベット密教を開いた開祖パドマサンババ(グル・リンポチェ)とブータン国内で夫々の宗派を開いた祖師像を祭る。
このことは、日本の真言宗寺院でも本尊には大日如来、脇本尊に日本で密教を開いた弘法大師の祖師像を安置することと類似する。この点は、日本でもブータンでも信仰の対象とする仏像の扱い方は同じであることを理解した。