「恋愛」という言葉
〈更新日: 2001年12月17日 〉 ※写真が掲載されている場合は、クリックすると拡大表示されます。
「恋愛」という言葉の響きは、素晴らしい。この言葉には、若くても、年老いていても、「ときめき」と「あこがれ」を持つものだ。
私は、よく「恋愛」という言葉を、「恋」と「愛」に分けて話しをする。
「恋」という言葉は、「夢」であり「ロマン」だと話す。
言い換えれば、「恋」は、責任の伴わない「生きるバネ」とも言っている。
「生きるバネ」は、大変大切なものであり、「生きる活力源」である。
しかし、「恋」は、責任を伴わないから、わりと簡単! ダメだったらまた次を探すということになりかねない。
一方「愛」は、現実であり、足元であると解釈する。
「愛」は、異性に対しても、親に対しても、子供に対しても、心の中に平等に生まれる。
「愛」は、これこそ最も重要な命題と解釈されているが、同時に厳しい現実責任が必ず伴っているものだ。
嫁と姑、親と子、夫婦間、異性間の「思い合いと確執」など、現実には難しい壁や立ちはだかる何かがある。
しかし、現実生活を容易に過ごそうとすると、立ちはだかる壁を、乗り切らないと「愛」は結実しない。
その為、ダメだつたら、また次を探すといった簡単な「思い」は通じない。
ここに「心の捕らわれ、こだわり」が生じやすい。
その現実の難しい壁を、乗り切ろうとする心の活力源が、「恋」いわゆる「夢」であり「ロマン」ではないかと考える。
そして、この「恋」と「愛」の2つの言葉が、個々人の互いの心に、上手に調和、共生している姿が「恋愛」、という言葉の意味ではないかと考えている。
しかし現実は、個々の心の世界には違いがあり、価値観を共有して互いを受け入れ、気持ちを一つにして「恋愛」を、成し遂げられるのは、「まれ」と言える。
最近は、「主婦のパチンコ三昧(ざんまい)、サラ金地獄」、「男の酒、女、賭け事」 等を原因とする「恋愛ごっこ」を清算するカップルが多く見られる。
自分の都合、ゲーム感覚で「恋愛ごっこ」し、最後には異性、配偶者、子供に傷をつけてしまう。
昨年、私のところに寄せられた事例に、そんな「恋愛問題」がやたら多かった。
心が痛む!!
真言宗には、「理趣経(りしゅきょう)」という密教の大事なお経がある。
このお経の中から「恋愛」という言葉を覗いてみる。
「欲」を否定しようとしている人は、一見清らかであり、外見はかっこ良く見える。
しかし、お金を儲けたい、性的相手が欲しい、人より優れていたい、幸せになりたいなど、全ての「欲」は、人間にとって、否定するべきものというより、 むしろ生きようとする為の活力源としても見ることが出来る。
過度の「欲」は害になるが、「欲」は「生きるためのエネルギー」であり、否定するのではなく、むしろ肯定的に捕らえようとするのが密教の教えである。
この教えが「理趣経」の中に書かれている。
自分の心の中で、「欲の心」を否定し続けていくと、否定し終わったところには、逆に物事の対立を越えて、対立していた相手すらも、受け入れることが出来る「すがすがしさ=清浄(しょうじょう)」が現われてくる。
「理趣経」では、これを「大欲(たいよく)」といって、ここに「生命の源」が宿ると捕らえている。
実は、この「生命の源」が「恋愛の源」と置き換えられ、 人や物を「こだわりなく愛することが出来る力」になると教えている。
無責任時代ともいわれる現代に、もう一度自分の心を見つめ直し、「捕らわれやこだわりを越えた、責任ある愛」を探して欲しいものだ。
そして、自分だけが都合良いというのではなく、自分も他人も同じ幸せや利益が得られる、現実世界にしたいものだ。
難しいお経の中から、何かを読み取ってもらえればと思う。
〈注釈〉 理趣経 = 密教のお経で、真言宗の一番大事な経典の一つ。
大欲 = 「欲」を否定しつづけ、越えたところに「欲」も肯定出来る力をもった「心」。